· 

聖霊降臨後第18主日

 

マルコ 9:38-43,45,47-48

 

我が家の子どもたちは兄弟姉妹でよく遊んでいますが、同時に、子ども同士でよく喧嘩をしています。理由は、子どもたち同士でいろんな遊びを考えて遊んでいるのですが、お互いに自分なりのやり方、流儀、こだわりによるものです。それぞれ言い分があるので、誰が一番正しい、という判断はできない。それぞれ「こうしたい」という想いがあるので、お互いの想いを先ず、聞き合おう、そして、楽しく遊ぶ術を見出してみよう、そんな話をしています。

 

子供の世界だけでなく、大人の世界においてもいろんな分野において、多様な流儀、やり方、があります。それはそれで多様性があって素晴らしいことだと思います。しかし、自分たちこそが正しいとか、正統派であると言って、他者の流儀、やり方、哲学などを否定する人たちがいます。この世界は数に左右されるところがあるので、自分たちのグループをいかに広げていくか、と言うことに躍起になっている人たちがいます。自分たちのグループの魅力を伝えるために、他のグループを批判、否定して、引き下ろすような振る舞い、言動をする人たちがいます。力のあるグループに属している人は、自分では何もできないけど、そのグループにいると言うだけで、強い、偉いという思いを抱くようになり、傲慢な態度を取り、他のグループを見下す人々がいます。他者、他のグループの成功や良き働きを認め、賞賛することが出来ず、悪口や変な言いがかりをする人々がいます。そのような人たちは、周りの世界を全く見ることができず、自分たちをきちんと見直すことができません。新しいものを見出す機会を失っています。

 

今朝のマルコによる福音書は、イエスの弟子ヨハネが、イエスの名を用いて悪霊を追い出している人を見たものの、「自分たちに従わない」ので、やめさせようとした、そのことをイエスに伝える場面から始まります。ヨハネにとっては、自分たちはいつもイエスと一緒にいるイエスの一番弟子であり、イエスの振る舞いや言葉にもいつも触れていて、誰よりもイエスのことを知っている、そんな自負があったのでしょう。自分たちのグループ以外の人たちは、イエスのことをよく知っていない、自分たちとは全く次元が違う人たちであり、そのようなグループがイエスの名を使って悪霊を追い出すという癒しの業をするのは許せないことでありました。

 

ヨハネは「自分たちに従わない」人たちのことをイエスに報告することによって、イエスに対する忠誠を示すと同時に、イエスのグループに入っていないグループに対するイエスからの応答を引き出そうとしました。イエスはきっと、ご自身のいるところ以外で勝手な振る舞いをすることをお許しにはならず、そのような行為をお咎めになるだろう、そう考えていたのだろうと思います。

 

しかし、イエスの応答はヨハネの予想とは全く違うものでありました。それを「やめさせてはならない」と言います。イエスご自身の名を用いて、奇跡や癒しの業を行うのではあれば、それでいい、そう仰せになります。イエスにとって、イエスご自身の名によって働くもの、生きる人は皆、受け入れる、と言うことでした。ヨハネや他の弟子たちとは違うグループであろうとも、イエスの名において生きるものは皆、神の子であり、同じ家族である、そのような意識をもっておられたのです。イエスにとって、ヨハネの言動は、非常に狭い、自分たちのグループ意識に囚われているように見えたのでしょう。

 

ヨハネの言動、その内側にある心は、今日の教会の中でもポツポツと見られるものです。主イエスの名によって、建てられた教会でありながらも、その中で、自分自身の考えを、自分中心の思いを優先させようとしてしまうことがあります。イエスの名の下に一致する途を探し求めるよりも、自分が有利に、優位に立つことができるようにと、自分に見合う仲間作りに躍起になってしまう人の姿があります。新約聖書の中にも、分派争い、仲違い、悪口を言い合う人の姿があります。このようなことに心を奪われている教会は「教会」と言う名前、建物を持っていたとしても、イエスの教会、真の教会ではありません。

 

宣教が停滞している、教会に人が集まらない、など、いろんな声があります。どのようにすればいいのか、方策は間違っていないか、誰の責任なのか、いろんなことが話題に上がりますが、一番の根っこにあるのは、人間関係、人間同士の繋がりの問題だと思います。分派作り、陰で悪口を行っているような場所には人は来たくはありません。分派作りをし、悪口、陰口を言い合っているところには、悶々とした、窮屈な空気が漂います。教会に長くいればそのような空気にも慣れてしまうのかもしれません。それもまた、問題の一つです。

 

教会を外から眺めている人、その中身を全く知らない人にとっては、教会って、どうしてこんなにいろんな教派があるのかと、不思議に思っています。世界史の授業では、教会同士の争い、宗教を巡っての争いの出来事があって、それは今の時代においてもそうですが、どうしてそんなに争う必要があるのか?、そう疑問に思っています。もし仮にある人がある教会に初めて行ったとき、人間同士の小競り合いがあることを知り、それを体験してしまうことになれば、イエスの名のもとに集い、生きる場所で、どうしてこのようなことがあるのだろうと、躓くことになるでしょう。

 

いろんな想いがあって、いろんな背景があって、今日、様々な多様性に満ちた教会があることは素晴らしいことだと思います。多様な教派があることが悪いと全く思いません。その一つ一つの教会のど真ん中にイエスがいて、イエスの名のもとに、それぞれの教会で小さくされた人、即ち、苦しんでいる人、悩んでいる人、人間関係で傷ついている人、痛みをもっている人に、一杯の水、つまり、小さな心配りをすることを大切にしていくことができれば、多様に満ちた、教会の働きがどんどん広がっていくのだろうと思います。

 

一つの教会の中にあっても、いろんな思いの人がいて、多様な意見も持っている人が集うのは素晴らしことです。しかし、その中で、「あの人は、あの人たちは、わたしに、わたしたちに従わない」という思いに囚われているのであれば、真の宣教、教会生活を営むことはできません。

 

一人ひとりの中に、その心のど真ん中に、イエスがいて、そのイエスとの生き生きとした繋がりがあって、お互いの違いを受け入れ合うことができるのであれば、お互いの個性を引き出し合い、生き生きとした空気が生まれ、生き生きとした宣教につながるのだろうと思います。自分の流儀、やり方ばかりに囚われて、イエスの想いを見失うならば、お互いの個性を生かすことができません。

 

イエスをわたしたちの真ん中に招き入れること、大切にしましょう。イエスと共に、イエスを軸にしつつ、広い心で、他者を認め、受け入れ、成長していくことができますように。