聖霊降臨後第17主日

 

マルコ 9:30-37

 

中学生の頃から部活動に勤しんでいましたが、そこでの生活は一番下の下級生があらゆるものの準備や片付けを行い、監督や先輩たちに仕えていく、そのような生活を続けておりました。しかし、大学に入り、アメリカの大学などでは、上級生やコーチが、練習の準備をしたり、下級生に仕えるという心を大切にしていることに触れ、上に立っていくこととは何か、ということを考えたことがあります。

 

しかし、多くの場合、上に立つ人というのはそれなりの力を持っていて、その人にみんなが仕えていく、そのような構造が成り立っています。上に立たなければ、自分の理想のかたちにはならない、だから、自分で努力して、力をつけて、上に立てるような人になるために頑張る、そのような生き方のモデルがあります。上に立つ人、トップに立つ人は、多くのものを所有し、誰にも勝る権威があり、名誉や尊敬を得ている、そのようなイメージが人間の心を揺さぶります。

 

「誰が一番偉いか?」

 

今朝の福音書に登場する弟子たちの関心はいつもこのことにあったようです。イエスとの旅の途中、イエスと共に宣教の旅をしている中で、弟子たちがお互いに意識していたことは、「誰が一番偉いか」ということでした。

 

今朝の箇所ではイエスから弟子たちが「道で何を議論していたのか」と問われた時、みんな黙っていたと記されています。誰が一番偉いか、という議論に没頭していたことに後ろめたさがあったのでしょうか。イエスは弟子たちが旅の途上でこれらの話をしているのを知っていて、あえて「何を論じ合っていたのか」とお聞きになったのか、それとも本当に知らなくて問いかけたのかはわかりませんが、この弟子たちの抱いている想いに対して、こう言います。

 

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」

 

イエスは「どんな人が一番偉いか」ということには全く触れません。こうすれば一番偉い人になれる、名誉を得ることができる、尊敬される、というノウハウなどはイエスにはありません。イエスにおいては関心のない事柄でした。

 

なすべきことは一つ、「すべての人の後」に立ち、「すべての人に仕える」ことであること、それを伝えます。すべての人の「後」とは何でしょう? 周りを無理やり押し退けて、前へ前へと出て、上へ立とうとするな、ということです。思うに、本当に尊敬を得る人は、そのようなことをしなくても、一番後ろにいたとしても、自然と、周りの人がその人を引き立てるのでしょう。

 

そして、「すべての人に仕えること」、それは、出会う人すべてに仕えていくこと、特に、子どものように小さく、脆く、弱さのうちにある人に仕え、支えよ、そうと言われます。この人に仕えれば、あとあとおいしいことがある、見返りが大きいとか、そのような損得勘定は一切捨てて、何もお返しできないような小さな子ども、そのような脆さのうちにある人を、大切しなさい、そう仰せになります。

 

これはシンプルな教えですが、なかなか大変なことです。弟子たちがそうであったように、わたしたちの内にも弟子たちのような思いが絶えず見え隠れするからです。損得なしに、すべての人に仕えていくこと、頭ではよくよくわかっていても、自分のことが大好きな私たち人間には、いつも、イエスが仰せになられたことを完璧にこなすことはできません。私たちにも脆さ、弱さがあります。このイエスの言葉に真摯に向き合えば向き合うほど、イエスの言葉に本気で従おうとすればするほど、自分の脆さ、弱さを感じます。損得勘定を捨てきれない自分を痛感します。

 

しかし、私たちは、このような自分の脆さ、弱さを知ることが重要です。それをよく知り、一つずつ、自分のうちにある利己的な思い、自分が一番という思いを脇に置いていくのです。イエスの背中を眺めながら、どんどんと荷物を軽くするかのように、いろんな利己的な思いを脇に置いていって、イエスの後ろに従っていくのです。

 

一番になれない自分に嫌気がさし、悶々としている人がいるかもしれません。自分はもっと尊敬されるべきだ、もっと上に行けるはずだ、と今の自分を苦々しく感じている人がいるかもしれません。

 

そのような思いは、体にも、心にもよくありません。一番になっても、そのような尊敬、名誉は一時のものです。イエスの招きは、そのようなものから解放し、自由にし、気張らず、自分らしく生きる道を与えてくれます。

 

キリスト者の人生、旅路とは、そのような道を歩くことです。

 

日々、楽になって、イエスとともに、軽やかに生きていくことができますように。