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聖霊降臨後第16主日

 

マルコ8:27-38

 

コロナ禍にあって、神戸教区ではYoutubeを通して礼拝や説教を配信しております。また、教区内の各教会独自でYoutube配信を行なっている教会があります。Yutubeを知らない人はほとんどいないでしょう。世界中からいろんな動画が配信されています。私はよくスポーツの動画を見ることがありますが、その関連でプロスポーツ選手がどれだけお金を稼いでいるかとか、セレブな生活を送っているかなどの動画もあります。その年収や生活は驚くべきものです。多くの人々がこうした成功者の人生を賞賛します。このような成功者はスポーツの分野だけではありません。ビジネスにおいても、多くの成功した起業家がいます。ユーチューバーと呼ばれる人たちは、今や子供たちが憧れるビジネスの一つです。多くの成功者たちはスポーツ選手と同様に、豊かな生活を送っています。

 

目には見えない相当な努力の結晶が、こうした豊かな生活につながっていると思いますが、YouTubeを通して見える姿は、たくさんのお金を稼いだ成功者です。人生における成功とは、その稼いだお金の金額で判断されているように見えます。お金を稼ぐ人は、人生の成功者、賢い人、出来る人、そのような「ものさし」が出来上がっています。「俺の稼ぎはお前の稼ぎの何倍だ!」とか、「俺の月収はお前の年収より多い」とか、稼ぎがあることが偉い、格の高い人間だ、そのような価値観でもって生きている人がたくさんいます。

 

今朝のマルコによる福音書の中に、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の徳があろうか」というイエスの言葉があります。これは、イエスに従おうとする弟子たち、そして、そこにいた群衆に向けられたイエスの言葉です。

 

イエスは、「いのち」について語ります。この世の「いのち」は限りあるものであることを示します。どれだけ成功しても、たくさんの財産、名誉を持っていても、それはいつまでも残らないことを示します。このことは多くの人々がよくよく、理解していることです。「死んでしまえばこれらのものは死後の世界に持っていくことはできない」、そう理解しています。それでも、これらのものをいかに多く得るか、多く得ることができれば、自分は人生の成功者である、勝ち組である、豊かな人生を送れる、そう信じています。

 

お金がなければ生活もできないし、確かにあれば安心です。「お金」がなければ何もできない今の世の中においては、これを意識せずには生きていけません。イエスの時代にも貨幣は存在し、それがたくさんある人たちは豊かな生活を送り、他者からも尊敬の念を抱かれていました。しかし、イエスのまなざし、イエスのメッセージは、このようなものを超えていきます。

 

お金や地位という「ものさし」を脇に置きます。裸の状態になったときの、人間のいのち、あり方について問います。お金や地位よりも、人の「いのち」を豊かにするものがあるかどうかを問います。イエスはお金や地位に関心を持っていません。イエスとともに生きるということは、これらの「ものさし」を超えたところに向かって生きる、ということを伝えます。

 

そのイエスが示す「いのち」は、イエスとともに、イエスのうちにおいて、神と他者に自分を献げていくという「いのち」です。イエスはこの生き方を通してのみ、本当の「いのち」、すなわち、「神のいのち」にあずかると伝えるのです。

 

お金や地位はあれば確かに困りません。他者からの賞賛も得ることができ、楽しい人生を送ることができるでしょう。しかし、これに貪欲になればなるほど、イエスが伝える生き方からは遠ざかり、「神のいのち」にあずかることはできないのです。イエスの真の弟子にはなれないのです。

 

イエスは両手を広げて、イエス自身とともに生きてくれる人を待ち望んでいます。そして、本当のいのち、神のいのちへと導いてくれるのです。

 

この「いのち」にあずかるかどうかは、わたしたちの決断によるのです。