ヨハネ 6:53―59
あっという間に夏が来て、子供たちも夏休みに入り、日々、バタバタとした毎日を過ごしていますが、8月も三週目に入り、9月まであとわずかです。月日が経つ感覚が年々早まっていますが、現代の世の中のスピードもまた、年々、加速しているような感覚を抱きます。世の中はコロナ禍の中で、オリンピックが開催され、閉会しましたが、コロナ感染拡大が災害レベルとも言われる状況です。さらに大雨という自然災害により、多くの地域の人々が困難な状況に苛まれています。人間のいのちが脅かされている大変な状況の中にあります。
しかし、現代生活は立ち止まることなく、スピードを落とすことなく、突き進んでいる状態です。立ち止まりたくても、立ち止まることができないという環境がそのようにさせているのだと思います。それぞれの場所が過密スケジュールになっていて、じっくりと考えること、語り合うことが出来ずにいます。少しの時間があったとしても、頭の中は過密スケジュールによって、「次のことを考えなきゃ」と、一向に休まらない、そのような日々を多くの人が送っているように思います。
「忙しい」という漢字の本来の意味は、心を破壊する、という意味があるそうです。「忘れる」という漢字も「忙しい」という漢字に関連するそうですが、同じく、心の崩壊を意味します。忙しい日々の中で、自分の仕事のこと、自分のスケジュールは忘れずにいても、神さまのこと、自分の周りの人のこと、また、今の世の中において苦しみ、悲しんでいる人のことを「忘れて」しまうことがあります。自分のことだけを管理していればいい、というのが現代社会のスタンダードだと思いますが、この2つの漢字が示すことは、「忙しさ」は本来の人間のあるべき心を崩壊させる、ということを教えてくれているように思います。
心・技・体という言葉ありますが、この言葉はこれら3つのつながりを示します。心が崩壊すれば、技、体も崩壊していく、ということです。わかる気がします。心が疲弊している時は、体が疲弊し、そして、振る舞いや行動、仕事にも影響します。わたしたちの「いのち」そのものに影響を及ぼすのです。
今朝の福音書の中で、イエスは、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる」そのような言葉を語っています。
「私の肉を食べ、私の血を飲む」という言葉、ドッキリする言葉です。イメージがしにくい言葉です。現代に生きる私たちの感覚では、イエスの肉を食べ、血を飲むなど、おぞましいことであるし、また、今、ここに生きている私たちには不可能なことだろう、そう考えるでしょう。
この言葉を理解するにはイエスの時代の遥か前の旧約聖書の時代の世界観に帰る必要があります。この世界観では、「肉」や「血」はその人の人格を意味します。「食べる」、「飲む」という表現もわかりづらいですが、そのイエスの人格によってわたしたちの心が養われる、豊かにされるということを示しているのです。食べ物を「食べる」、飲み物を「飲む」ことは、生きる上で不可欠なことですが、心が豊かでなければ、健全でなければ、その食べる、飲む、という意欲も出てこないでしょう。
イエスはわたしたちの心の面、霊的な面に深く見つめて、このように語ります。それを豊かにするのはイエス自身を通しての、父なる神との繋がりであると言っているのです。それが豊かに生きる糧となると。
そして、イエスが言う「とどまる」という言葉も重要です。「とどまる」とは「そこにいる」ことを意味します。あちこち、動き回らず、その場にいるのです。停留や停泊という意味もありますが、その場合も、そこに繋がっている、ことを意味します。
船の停泊には錨が必要です。そこにずっといるには宿屋や住むところが必要です。イエスという錨、イエスという宿屋または住むところが、わたしたちには必要なのです。人生という旅をしていますが、そこにはいつも立ち止まり、休むところとして、イエスが必要なのです。
イエスはいつもそこにいます。しかし、わたしたちが、イエスがそばにいてくれることを忘れて、立ち止まらずにいるのであれば、そこに繋がりは生まれません。世の中はガンガンと動き回り、スピード感を持ってあれこれとすることを求めますが、イエスはそこにいること、立ち止まり、ゆっくりとそこに佇むことを望んでいるのです。
イエスは宣教のために絶えず動き回ったというイメージがありますが、イエスは父なる神のところで佇む人、そこにいる人でありました。その父なる神のところで立ち止まり、苦しみ、悲しんでいる周りの人のことを覚え、祈り、また、苦しみ、悲しみのあるところへと出ていく人でありました。イエスの心は破壊されることなく、神のうちにあって、保たれていたのです。
わたしたちも自分自身を見つめ直しましょう。そして、静かに佇むことの中で、苦しんでいる人、悲しんでいる人を覚え、祈りましょう。そのことによって、私たちの心と体と振る舞いは成熟したものとなり、自分に、周りの人に豊かないのちをもたらすこととなるのです。