ヨハネ 6:37-51
8月6日、9日という日。歴史上、決して忘れてはならない日であります。広島と長崎への原爆投下によって多くの人々のいのちが奪われた日です。教皇ヨハネ・パウロ2世の言葉、「戦争は人間のしわざです」という言葉にあるように、人間同士の争いによって人類史上、最悪の出来事が起こりました。原爆投下は、敵対する人間への憎悪からだけでなく、原子力爆弾という人間の知恵、科学の進歩の誤用からのものであります。時代が進むごとに、文明は開花し、発展を遂げてきたのですが、その過程の中で人間の思い上がりが破滅をもたらしました。
数年前、英国にある立教英国学院に在職していたとき、オープン・デイという文化祭のような行事がありました。地元の多くの人々が来場するイベントでしたが、各学年・クラスが一つのテーマを取り上げて、プレゼンテーションをすることになっていました。あるクラスのテーマは原爆投下の出来事でしたが、そこに訪れる人々にアンケートや自由なコメントを求め、それを纏めたのですが、その中にその出来事は仕方のないこと、戦争を終らせるためには避けることができなかったというようなコメントがあったことを聞きました。「仕方のないこと」、「戦争を終らせるため」と言って、罪のない14万人の命が奪われたことを正当化しているのです。「いのち」の軽視です。他人事の発言なのです。原爆投下によって命を失った人が自分の愛する家族、友人だったとしても同じようなコメントしたのでしょうか。同じく在職中、英国での原発関係の運営の責任者が、理系の生徒たちが集い学ぶワークショップの中で、原発ほど安全なものはないという発言をしました。このワークショップには学院の理系の生徒たちも参加していました。彼は東日本大震災の出来事を知っており、日本人がこの問題に過敏になっているのも分かっていましたが、地震の少ない英国では問題ない、という感覚でそう言うのです。それは日本で起こったもの、自分たちには関係ないもの、そんなことがあるわけないと思っているわけです。他者の「いのち」への感性、配慮が全く損なわれているのです。
さて、今朝のヨハネ福音書には、「永遠の命」、「命のパン」といった言葉が出てきます。この言葉、表面的に眺めると、「永遠」の命とはなんだろう?命の「パン」とは何だろう? どうすればこれらを得ることができるのだろうかということに関心が向けられがちなところであります。これらの言葉はイエスによるものです。もちろん、「永遠」や「パン」という言葉には神学的に重要な言葉であると思うのですが、何よりもまず、「いのち」という言葉、全ての人の「いのち」に焦点があてられているように思うのです。イエスはわたしたち人間の「いのち」、そこへの配慮を感じるのです。
わたしたちの生きている世界は、苦しんでいる「いのち」、悲しんでいる「いのち」、痛みや傷を負っている「いのち」があります。怒りや敵対心に満ちている「いのち」があります。私たちが生きる社会は一見豊かに見えますが、先に述べたような、様々ないのちー苦しみ、悲しみ、痛み、傷を負っている「いのち」―を抱えている人がたくさんいます。
それはイエスが生きた時代も同じでした。ローマ皇帝という強欲且つな強権支配による統治によって多くの人々の「いのち」が抑圧され、傷つき、痛みを抱えていました。また、ユダヤ教との軋轢という背景もありました。それによって多くの傷ついたいのちがありましました。イエスはその傷つけられた「いのち」に目を向けたのです。そして、その「いのち」に触れ、そこからよりよい「いのち」をもたらす、その約束を与えたのです。
永遠のいのちとは、この地上での不老不死といういのちではなく、神と共にある「いのち」です。それは、この地上でのいのち、そして、この地上を去った後の「いのち」です。いつまでも神共にあるいのちです。命のパンとは、イエスのことです。イエスの言葉、イエス自身です。これがいのちの糧になるのです。イエスは、様々な傷を持った「いのち」を豊かな「いのち」、より良い「いのち」へと変えてくれるのです。イエスはわたしたち一人ひとりの「いのち」のことを想ってくれているのです。このイエスとつながり合っているという実感がわたしたちのいのちを豊かなものとしてくれるのです。
先ほど原爆投下の話をしましたが、数年前に来日した教皇フランシス1世は、戦争がなければ平和である、というわけではないといいます。平和とは人が自分自身と、自然と、他者と調和した状態であるといいます。フランシス1世によれば、家族、共同体、教会における様々な争い、緊張状態というものは、どんなに小さな小競り合いでも、人と人がぶつかりあうという意味では、戦争と変わりないと見ています。そして、このようなぶつかり合いを止め、調和を回復する必要があると訴えます。
この言葉に触れ、自分の置かれている場所―家庭、職場、交遊の場、教会の場―で触れ合う「いのち」を大事にしなければならないという気持ちが一層強まります。意地悪な心、妬み、怒り、敵意とか、自分本位な心を脇におく必要があるのです。
命のパンであるイエスが示してくれたように、わたしたち自身も他者のいのちへ感性をもって優しく配慮し、お互いのいのちを育くんでいきたいものです。