聖霊降臨後第10主日

 

ヨハネ 6:24-35

 

コロナ禍にあって礼拝のあり方にも変化が生じています。教会によって対応が異なりますが、当教会では教区のガイドラインに沿って、現段階では聖餐式ではなく、み言葉の礼拝を続けています。長い期間、陪餐を受けることができずにいます。

 

今朝のヨハネによる福音書における「パン」に関する議論は、わたしたちの教会における聖餐式及びその中で受けるパンについての議論です。単なるパンではない。天からの「神のパン」であり、「世に命を与えるもの」、「命のパン」、そのように宣言されているものです。

 

聖餐式が出来ず、パンを受けることが出来ない状態の中で今朝の福音書の言葉を耳にしていますが、この福音書の言葉をどのように受け取るべきでしょうか。聖餐式が出来ないのであれば、この福音書の言葉は全く意味のないものとなるのでしょうか。

 

前述した「神のパン」、「命のパン」は今朝の箇所の鍵となる大切な言葉であると思いますが、もう一つの大切な聖句がここに記されています。それは、イエスが朽ちるパンではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい、と述べた後、それを聞いた人々が神の業を行うためには何をすればよいかと尋ねた後のイエスの応答です。

 

「神がお遣わしになった者を信じること。それが神の業である」

 

神がお遣わしになった者、それはイエスのことを指していますが、イエスを信じること、知ること、それが神の業へとつながっていく、そのように宣言しています。

 

イエスへの信頼、イエスとの生き生きとしたつながりの実感、これこそが何よりも大切であることを示します。聖餐式でのパンを受けることは大切ですが、そのときに、イエスへの全幅の信頼、生き生きとした有機的な、人格的なつながりがあるかどうかが問われています。

 

その聖餐式のパンを受けることは今は出来てはいませんが、聖餐式でのパンと同等に大切なものは、神のことばである聖書のことばです。聖書の言葉を聴き、浸されることです。聖書の言葉は、語る人の口を通して、聴くことができる「神の言葉」です。語る人の口を通して、キリストがここにおられ、語りかけてくれているのです。

 

聖書の言葉は聖餐式のパンと同じく、わたしの命の糧です。私たちが生きていく上の道標であり、生きる意味を示してくれるものです。わたしたちは神から生まれ、神とともに歩み、神のもとへと戻っていく。その途上の中で、多くの人と出会い、神と共にあることを素晴らしさ、を分かち合うのです。

 

目に見えるもの、物質的なものに囚われ、それに心を奪われやすいわたしたち人間ですが、聖書の言葉は目には見えない霊的なもの、心の部分を配慮してくれるものなのです

 

みなさんの心は癒されていますでしょうか。イエスの言葉、イエスに生かされているでしょうか。体だけでなく、心にじっくりの目を向ける1週間としたいものです。