マルコ 6:45-52
オリンピックが開幕しました。開幕前、「安心、安全」という言葉をよく耳にしました。コロナ禍における大きなイベントの開催というのもあり、「安心、安全」という言葉を巡って様々な意見が行き交いました。様々な分野における専門家たちの叡智を結集させて、「安心、安心」を与えるために様々な方策が講じられています。
安心であること、安全であること、それはわたしたちの生活だけでなく、心の面にも大きな影響を及ぼすものです。小さな子どもから、高齢者に至るまで、「安心」、「安らぎ」を感じること、得ることが、心の健康に繋がります。どんなにたくさんのおもちゃやお菓子、自分の大好きなモノを与えられ、それに囲まれていても、小さな子どもにとって、そこに親の存在、親の眼差し、親の愛情がなければ不安を感じるようになります。おもちゃで遊ぶことのできないもっと小さな幼子にとっても親の抱擁、言葉かけこそが安心を与えるものになります。
お年寄りにとってもそうです。自分の体験としてですが、自分が神学生の頃、ちょうど夏の実習を終えて、実家に帰った時、祖母が入院生活を送っていました。毎日、お見舞いに行っていましたが、病室での祖母はほとんど寝ているような状態でしたが、その間、何度もうっすらと目を開けて、わたしがいるかいないかを確認する。わたしが「まだ、いるよ」と声をかけると安心したような顔をしてまた目を閉じる。きちんとした医療を施して頂くのも大事ですが、同時に誰かがそこに寄り添っていることの大切さを感じたのでした。
今朝のマルコによる福音書の箇所は、弟子たちだけの向こう岸のベトサイダへの舟の移動中の出来事が記されているところです。イエス抜きの舟での移動中、逆風が弟子たちの舟を苦しめます。なかなか前に進まない困難な時に、舟には乗っていなかったイエスが湖上を歩いて弟子たちのところに来られ、怯える弟子たちに向かって、「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」と声をかけられる。
この場面はわたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。
湖上にあった弟子たちの舟は、わたしたちの教会の歩み、また、わたしたちの人生とも言えるでしょう。弟子たちを悩ました逆風は、教会の歩み、人生の旅路の中で直面する様々な困難、苦しみと言えます。今、ここにいるわたしたちの教会、人生の旅路において、目に見えるかたちでイエスはおられません。わたしたちは苦しい時、辛い時、悲しい時、イエスはどこにおられるのだろう、神さまはどこにおられるのだろう、そのような寂しさ、不安を感じることがあります。目で見て、手で触れるように、イエスが現れてくれたらどんなに嬉しいか、と、思うことがあります。
イエスが弟子たちに語りかけた「安心しなさい、わたしだ」という「わたしだ(である)」という言葉は、出エジプト記の物語との繋がりがあります。物語の中で、モーセが神に対して、周りの人たちから「神の名」について問われたらどうしたらいいのか、と問う場面がありますが、そこで神はモーセに「私はいる、という者である」、そう答えられます。神の名は「私はいる、という者」だと。
現代に生きているわたしたちにとって、「安心」を与えるものは目に見えるもの、確かなもの、安心だと証明してくれるもの、即ち、データによる科学的根拠に基づく証明などです。それがなければ疑わしいもの、信頼できないもの、安心、安全ではないもの、そのように判断します。
しかし、神について、また、信仰については、このような仕方では説明がつきません。神はわたしたち人間を遥かに超える存在であり、この世における科学的なものにおさめることのできない大きな存在だからです。
そのような中で、イエスは「安心しなさい、わたしだ、恐れることはない」と呼びかけます。
「安心しなさい、このようなデータ、結果が出たので、信じることができるでしょう」とは言いません。
「安心しなさい、わたしだ」、そう宣言するのです。
このイエスの言葉、招きを受け入れるためには、勇気をもって一歩前に踏み出す心が必要になります。この世的なものさしを超えた存在であるイエスに飛び込んでいく勇気が必要です。どんなことがあっても「共にいてくれる」と約束するイエスにすべてを渡していく勇気が必要なのです。
「恐れることはない」という言葉は聖書においては人生の転換点を示す時に発せられる言葉でもあります。決断を迫られるときにこの言葉が注がれます。
イエスに信頼して一歩前に、また、手を差し出すことを通して、あとはイエスがきっちりと抱き寄せ、手を取ってくれるのです。
新しい1週間、「イエスが与える安心」のうちに歩んでいくことができますように。