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聖霊降臨後第4主日

 

マルコ 4:35-41 

 

今朝の主日の福音書には、船上にいた弟子たちに激しい突風が起こり、船の中にまで波が入り込んでくるという危機的場面がその冒頭に記されています。パニックになっている弟子たちの姿が想像できます。聖書の中には海や湖の脅威的な力が記されていることがありますが、多くの場合、それはわたしたちの世界における混沌や暗黒の力のシンボルとして表されています。そのような中でイエスは慌てふためく弟子たちとは対照的で、全く狼狽えることなく、「艫の方で枕をして眠っていた」と記されています。「艫」は船が沈むときには最初の沈んでいくところです。しかし、そんなところでイエスは枕をして眠っておられます。

 

英国の修道会付属の神学校へ留学していた時、定期的に静かな場所にある黙想の家などで黙想会が開かれましたが、その中のある黙想会において、このマルコ福音書の箇所が選ばれ、ゆっくりと読み、思い巡らしたことを覚えています。その時の黙想指導者は、船の上にいる弟子たちを揺り動かし、恐れを抱かせた「波」は、わたしたち人間の心の中にある「恐れ」や「不安」、「動揺」を表している、そのように話してくれました。

 

そのような波に覆われて、弟子たちはゆったりと眠っているイエスに、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエスを起こして叫びます。新約聖書の原語であるギリシア語では「私たちが滅びてもいいのか」と訳せるところです。「死」を暗示する言葉です。死とは肉体的な死もあれば、生きながらにして希望や喜びを失って、生きる意欲のない霊的な死というものもあります。いずれにしても、わたしたち人間の「いのち」が脅かされている、そのような危機的場面です。

 

その時、焦り、恐れ、動揺する弟子たちに起こされたイエスは、起き上がり、その荒れ狂う波に一言、「

黙れ。静まれ」、そう仰せになります。このイエスの一言、力のある一言は、旧約聖書の最初にある神のことばによってこの世界の秩序が創造されていく時の、権威あることばのようです。何かをするまでもなく、イエスの一言、ことばを発することで、その脅威的な力が閉ざされる。イエスのことばの力、重みを実感する箇所です。

そのイエスは、弟子たちに向かって「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と語られます。叱責に聞こえるこのイエスのことば。しかし、繰り返しイエスの言葉をじっくりと聴き、自分の中に響かせていく中で、愛に満ちたことば、慈しみに満ちたことばへと変えられていきます。それはイエスの生き方、行動に示されているからです。

 

イエスは絶えずこの世界にある暗闇、混沌、恐れの只中に入り、そこに置かれている人たちに寄り添われました。最終的には暗闇、混沌、恐れの極みである十字架の苦しみの中に入っていかれました。その中にあっても父なる神への信頼を失うことなく、そこに留まり続ける姿がありました。そして、その先に新しいいのちがありました。十字架の死の先に復活のいのちがありました。イエスによって、全ての脅威的な力を持った暗闇、混沌、恐れは鎮圧されたのです。

 

先ほど触れた留学時代の期間中、わたしたちの信仰生活には3つの「F」があることを学びました。それは「Feeling:感情」、「Faith:信仰」、そして「Fact:事実、確かなこと」です。弱さ、脆さを持ったわたしたちの「Feeling:感情」、「Faith:信仰」は絶えず揺り動かされます。船上にいた弟子たちのように。しかし、どんなときにおいて、このわたしたちの創造主である神はいつもそこにおられる、その「Fact:事実、確かなこと」はそこにしっかりと錨を降ろしてあるのだと。

 

わたしたちの現実の生活は、いろんな脅威にさられています。大小様々ですが、その只中にあって、自分のうちにある感情、信仰が揺り動かされ、苦しみ、悲しみ、痛み、または怒りを抱くことがあります。

 

しかし、そこにはどんな時でも、どこでも、わたしたちの造り主である神はいつもともおられるというFact:事実、確かなこと」がある。それを示してくれたイエスを通して、確かであり、堅固である神、神のいのちのうちに生かされていることを今一度想い起こして、新しい1週間を過ごしていきたいものです。