マルコ 3:20-35 イエスに聴き従う生き方
「自由」とは何か、本当に自由に生きるということは何か? 先週、現在、通学している大学院での講義の中で、また、神学館での神学生との会話の中で出た問いです。「自由」とは様々なところで、様々な人によって用いられる言葉ですが、キリスト者において、「自由」という言葉は何を意味するのか、分かち合いました。
あらゆる束縛から解放されて自由になること、ありのままに自分らしく振る舞うこと、そのような自由もあれば、自由な身でありながら、あえて、自発的に悲しみ、痛み、苦しみ、混乱や混沌にあるところに入っていき、そこにいる人々に寄り添い、仕えていくこと、そのような「自由」というものがあることを語り合いました。
イエスという人は、「自由」な人でした。あらゆる隔ての壁を超えて、あらゆる人たちと出会い、関わり、生きる人でした。罪ある人、疎外された人たちと共にあり、共に食事をとり、友情を深めることができる人でありました。自分の損得勘定なしに自由に生きる人でした。自分が周りからどのように思われようとも、今、目の前に、苦しみ、悩み、悲しんでいる人がいれば、自分の利益関係なく、自分の全てを与える人でありました。
イエスが示した自由な生き方とは、勝手気ままに生きるというよりは、自由に自分を他者に与える「自由」、あらゆるしがらみ、束縛に閉じ込められることなく、なすべきことをやっていく、そのような「自由」を持っていました。その自由さとは、神による、神の愛による自由のうちにあって示されたものでありました。そして、そのような自「自由」な生き方のうちに生きるようにと招かれました。
しかし、イエスの示した自由さに嫌な感情を抱く人たちもいました。イエスの癒しの業、即ち、悪霊を退散させるような癒しの業を見て、イエスの魅力に惹きつけられて多くの人々が集まってくるのを見て、ユダヤ教の律法学者たちは、そのイエスの癒しの業は悪霊の頭の力によるものだ、と難癖をつけます。イエスの存在によって、自分たちの立場が、即ち、自分たちが多くの人たちから得ていた律法学者としての地位、名誉、尊敬などが奪われてしまうことを恐れたからです。
イエスの癒しの業とは見せ物でもなく、魔術でもなく、神からのもの、神の愛のうちに、神の憐れみのうちに、その癒しを求めて切にイエスに依り頼む人との人格的な関わりの中で生じたものでしたが、律法学者たちにはそのようなものであることを理解することができませんでした。
さらにイエスの身内の人たちも同じように反応します。イエスの分け隔てのない自由な生き方、罪ある人、疎外されている人との自由な交わり、関わりを見て、そのイエスの自由さを閉じ込めようと、イエスを呼び出そうとします。イエスと共にある人たちから、イエスを自分たちのところへ呼び出し、そこにいた人たちとイエスとの交わりを奪い取ろうとします。
そのような姿を見て、イエスは言います。
「神の御心を行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」
「神の御心を行う人」とは、イエスと共にあり、イエスの言葉を聴く人です。そこには血肉は関係なく、イエスと共にあり、イエスの言葉を聴き、イエスの生き方に生きる人はみな、イエスの家族、即ち、神の家族になるのです。
イエスの生き方を生きるには、損得勘定、自己本位な考えから離れることが求められます。狭く偏った仲間意識から離れ、人間の思いを超える神の愛のうちに生きるようにと招かれます。
簡単なことではありません。決断、勇気が求められるものでもあります。しかし、一歩前に踏み出せば、そこに手を差し出し、その手を取り、いつも共にいてくれるイエスがいてくれるのです。