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三位一体主日・聖霊降臨後第1主日

 

ヨハネ 3:1-16 新しく生きる

 

コロナ禍の中にあって色々な事柄が制限され、窮屈に感じる日々が続いています。今まで当たり前に出来ていたことができなくなり、不自由を感じる時があります。礼拝や教会行事も同じで、礼拝の公開中止、集会の自粛など、多くの人たちとの交流が遮られています。

 

しかし、このようなコロナ禍での生活の中で、日々の黙想の時間を通して、これまでの生き方を振り返り、これからをどのように生きていくかをゆっくりと考える機会が与えられています。5月に全聖公会の国際礼拝会議がオンラインで開催され、参加させて頂きましたが、あらゆる国々の教会で礼拝の公開中止及び集会の自粛などが続いており、その中でどのように信仰生活を続けていくかを分かち合う機会が与えられました。礼拝はこれまで通りに行うことができていないのですが、コロナ禍での期間を通して、礼拝とは何か、信仰とは何か、また、神とのつながりについて深く思い巡らす機会であることを分かち合いました。確かに不自由を強いられているかもしれないのですが、その中で、希望のうちに、前を向いて歩んでいく力が与えられたように感じます。

 

今朝の福音書はイエスとニコデモとの対話です。ユダヤ教の指導者であり、律法学者として博識な人であったニコデモはある夜、イエスのところに訪れます。イエスの有り様を見て、そこに神が共におられることを感じたニコデモでは、イエスのことをもっと知りたい、イエスの教えを聞きたい、そう願っていました。

 

そのような思いを抱いていたニコデモにイエスは言います。

 

「人は、新たに生まれなければ、神の国をみることができない」

 

神の国とは神が共におられるところ、神が治めておられるところです。人の手によって国境線で限定されるような国家ではありません。自由で解放されたところです。神についての知識、理解もそうです。ニコデモは神の掟、律法に関する学者でしたが、これまでの神についての知識、理解すべて脇に置いて、新しく生まれ変わって、新しい目と心にされなければ、神について深く知ることはできないことをイエスから告げられます。

 

ニコデモはかなり動揺します。イエスの言葉の意味を完全に捉えきることができません。「新しく生まれ変わる」とは何か? イエスは何を言っておられるのか? 戸惑います。

 

イエスの言葉が示すのは「聖霊の働き」です。神の霊である聖霊によって新しく生まれ変わることができる、そう告げます。肉は弱さを持ち、衰えていきますが、肉のうちにあるいのち、魂、霊は、神の霊である息吹によって絶えず新しくされていく、という約束です。

 

イエスのニコデモへのメッセージは、わたしたちにも当てはまるものです。私たちは年齢を積み重ねることを通してありとあらゆる経験を積み、いろんなことが見えてきます。学問も同じで、研鑽を積み重ねることを通していろんな知識が蓄積されていきます。その結果、自分がいろんなことを知っている、理解している、これこそが真理だ、真実だ、と言う思いが芽生えてきます。しかし、イエスのメッセージはそのような思いを砕きます。

 

私たちは絶えず心新たに生きていくのです。自分はもうわかっている、あらゆるものを知っている、そのような思いを脇に置いて、絶えず、探求するのです。絶えず、神との関係、イエスとの関係について思い巡らすのです。

 

絶えず、聖書の言葉に触れながら、この神の言葉である聖書が今の自分の人生にとってどのような意味があるのかを思い巡らすのです。

 

呼吸をするように、絶えず、新鮮な空気を入れ込んで、新しく生きるように招かれているのです。