ヨハネ 17:11c-19
「分断」ということばをよく耳にします。国家の中で、または小さな共同体の中で、いろんな「分断」があり、それによって傷つけられている人々がたくさんいます。民族の違い、慣習の違い、考え方の違いなど様々な理由によるものですが、その「違い」を受け入れることができず、分断が生じています。
その違いは「多様性」であると理解して、お互いが受け入れあっていいという声がいろんなところから叫ばれていますが、なかなか上手くいっていません。このような「分断」はわたしたちの教会の中にもあります。歴史を振り返っても、教会内、異なる教会同士の分断が繰り返されてきました。今日においても教会内での人間同士の不一致、分断があります。このような状況を克服するためにはどうすればいいのでしょうか。どのようにすれば「分断」を超えて、お互いの間にある溝に橋を架けて、つながり合うことができるのでしょうか。
今主日の福音書ではイエスの父なる神への祈りの言葉に耳を傾けます。その祈りは十字架への道行に向かう前の祈りであり、この世の弟子たちと別れて、天の父への帰ることが示されています。この先、イエスは弟子たちと離れ離れになりますが、地上にいる弟子たちがどのような状況に置かれようとも守ってくださるようにとこの地上にいる弟子たちのために祈っています。
イエスの祈りの内容とは、この地上にいる弟子たちの保護、彼らが「ひとつ」となること、そして、彼らが聖なる者となるように、というものです。イエスは地上にいる弟子たちがあらゆる困難、苦難を生き抜いて行けるようにと守られ、そして、あらゆる分断、争いを超えて一つになり、そして、神の想いに叶う聖なる者とされるようとの願いを持って父なる神に祈ります。
イエスはよくよく知っておられました。このことはわたしたち人間だけの力では決して実現できないということを。父なる神からの支え、働きなしには決してこのことは実現できないことを知っておられました。だからこそ、切に祈りを捧げられました。イエスの十字架はこの世界の分断、溝に橋を架けるためでありました。
しかし、この地上にいるわたしたち人間はそのことをしばしば忘れています。自分たちの力でなんとかできると考えます。そして、お互いに自分の、自分たちの正義を押しつけたり、自分が、自分たちこそが真理を知っているとか、優れた能力を持っていると考え、他の人たちを従わせようとすることで今もなお、あらゆるところで分断が生じているのです。
わたしたちひとりひとりが聴く耳を持ち、自分とは違う存在であってとしても、それを攻撃したり、傷つけるようなことはしないことを想い起こすべきです。同時に、わたしたち人間すべてを包み込んでくれる神のいつくしみを仰ぎ見る必要があります。
「一つになる」とはみんなが同じような人間になる、思想を統一する、ということではありません。違いを受け入れ合い、その違いを大切にし、お互いの良きところを育ませていくことです。聖なる者となるとは、聖人君子のような非の打ち所がない完璧な人間になる、ということではありません。
いつでも神を仰ぎ見、依り頼む心、広い心を持っている人です。そして、これを実現するために不可欠なことは、いつも開かれた心で、神の言葉である聖書に目を向け、そして、神に祈りを捧げ、神と共に生きることを切に願い求めることであるのです。