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復活節第6主日

ヨハネ 15:9-17

 

兵庫県で発令されている緊急事態宣言が延長されました。未だ多くの方々がコロナ感染症によって苦しんでおられます。医療従事者の方々も日々、患者の方々のために奮闘しておられます。緊急事態宣言が延長されたことによって経済的に苦しんでおられる方々がいます。去年から世界中に広がったコロナウイルスは今もなお、多くの人々を多方面にわたり苦しめています。

 

キリスト者たちが集う多くの教会の扉もコロナウイルス拡大によって閉じなければならない状況に覆われています。礼拝での交わり、礼拝後の交わり、人と人の交わりは制限されています。交わりの中にコロナウイルスが介入し、そのつながりを分断しています。

 

コロナ禍における礼拝は自宅での祈り、インターネットを介しての礼拝など、直接的に触れ合うような形ではない仕方で捧げられています。聖餐式におけるパンと葡萄酒の陪餐も控えており、一抹の寂しさを感じます。しかしながら、世界中の教会で祈りが捧げ続けられています。その祈りはイエスを介して父なる神に届いています。

 

教会での交わりを絶たれて、悲しんでおられる方々の想いをイエスもまた悲しみを覚えながら見つめてくれています。教会に来ることができない状態であっても、イエスとの繋がり、イエスを介しての神との繋がりは決して絶たれることはありません。

 

さて、今週の主日の福音書は聖ヨハネにおけるイエスの「ぶどうの木」の譬え話です。

 

「私の愛にとどまりなさい」というイエスの言葉があります。「とどまる」という言葉。聖ヨハネに見られる特徴的な表現ですが、ここでイエスが語る「とどまる」とは原語では「停留する、停泊する」という意味を含んでいます。

 

本来はバスが停留しているとか、船が停泊するなど、人間以外のものに用いられる言葉であり、それが人と人との人格的な関係の中で用いられるのは不思議なのですが、そこにずっといる、船で言えば、ゆらゆらと揺れ動く海の上で錨を降ろしてしっかりと固定して、流されないようにする、そんなイメージを抱きます。

 

それは今のわたしたちに最も求められている「繋がり」です。教会に行くことができない、定期的な礼拝に参与することができない、いろんなことが制限されて、気持ちがゆらゆら、ふらふら、と動揺したり、緩慢になったり、熱心さを失ったりといろんな試みに覆われるような、そのような状況に置かれているからです。

 

しかし、このような時こそ、今一度、イエスとの繋がり、イエスを介しての神との繋がりを想い巡らし、再確認する必要があります。イエスはいつもわたしたちを見つめ、その傍にいてくれています。わたしたちといつもそこにとどまるようにと、そこでいつもとどまって、繋がって生きていけるようにと、イエスは傍にいてくれています。

 

イエスはそばにおられる。そこにしっかりとイエスへの「信頼」という「錨」をしっかりと降ろし、揺れ動く不安定なこの時代の中で、信仰生活を歩んでいきましょう。

 

先行きが見えない時期ですが、希望のうちに新しい1週間を歩むことができますように