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復活日

 

2年ぶりのイースター礼拝です。昨年はコロナのために自粛。昨春、異動してきたばかりでの緊急事態宣言からあっという間の1年です。今もなお、コロナは収束していない。しかし、今日、ここで、イエスさまのご復活を祝っている。苦しい状況にある。しかし、その中で、前進―感染予防対策のノウハウが充実、ワクチン摂取、多くの人たちの協力―があります。

 

2000年以上前のエルサレムでの出来事―静かな平凡な朝、十字架刑で死んだイエスという人の墓の前に置かれた非常に大きな石が転がされていたこと、「イエスはここにはいない」と白い衣の若者の言葉―は、その後、世界全体へと広がっていきます。そして、今日に至るまでイエスの復活の出来事が伝えられ、想起され、祝われてきました。

 

だけども、そのイエスの復活の出来事は、今朝のマルコによれば、「喜ばしい」ものではありませんでした。イエスの墓に訪れたマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、非常に大きな石が転がされていたこと、白い衣の若者との出会いとその言葉、「ここにはいない、ガリラヤに行け」に接し、「墓を出て、逃げ去った」のです。なぜなら、「恐ろしかった」からであった、とマルコは記しています。他の福音書とは異なる終わり方・・・。イエスの復活を宣べ伝えるのではく、「逃げ去った、恐ろしかったから」との言葉・・・。マルコが伝えるイエスの復活の出来事は喜びではなく、恐れがあったと記しています。

 

しかし、イエスの復活の出来事に直面した3人の女性たちの反応は不思議なことではない。死んだはずの、葬られたはずのイエスがいないですから・・・。死者の復活なんて、想像もしていないことだったはずです。非常に大きな石が転がされていたことも。でも、それは本当に起きたことだった! マルコは伝えたいことはこれです。

 

マルコはイエスの復活の出来事を疑う人たちを知っています。この出来事がすんなりと受け取れられないことを知っています。マルコ福音書が執筆されたは60年頃。イエスの十字架の死の出来事は30年頃。その証言を受け取り、マルコ自身の体験のうちにマルコ福音書は書かれていますが、イエスの復活を疑う人、また、このイエスの復活を「良き知らせ」として伝えていくことに不安を抱き、恐れを感じた人の思いを知っています。でも、この出来事は真実であり、この福音書を読む人は皆、この良き知らせを伝えることへと招かれていることを、伝えているのです。

 

白い衣を着た若者の言葉、「ガリラヤへ行け」という宣言とは、あのガリラヤに現れ、生きたイエスの歩みをこの福音書を通して、その初めから終わりまで読みながら、イエスに目を注いでみよ、という招きの言葉です。イエスは本当に神の子で、復活された!のだと。マルコは福音書を通して、いつも原点=出発点に戻れと招きます。そして、イエスのストーリーを何度も読み、見つめ直し、今、ここにいる、復活のイエスを感じるようにと招きます。今、ここにいる、わたしたちに対してその招きがあります。

 

 今、ここにおられる方々はそれぞれいろんな経験を通して、今日のイースターの礼拝に来ておられます。クリスチャンホームに生まれ育った方もいれば、人生における出来事を通して洗礼を受けられた方、または求道の道を歩んでおられる方がおられます。

 

何かがあって、神さまのこと、イエスさまのを感じ、教会へと向かって来られました。その時のことを覚えていますか? 教会へ繋がろうと思ったその時のこと、神さまを、イエスさまを感じた時のことを。それを想い起こすようにと招かれています。

 

今日、新しい洗礼志願者が与えられました。神様が呼ばれたのです。この出来事はすごいことです。復活のイエスが呼びかけ、それに応えるのです。この出来事を通して、その復活のイエスが今も生きておられることを感じることができます。そして、この出来事はここにいる全ての人に関わることです。今日のこの出来事を通して、洗礼を受けたあの時、または、神さまを、イエスさまを感じて、信仰生活を送ろうと、感じたその時のことを思い起こして欲しいと思います。

 

洗礼盤は教会の入り口にあります。せっかくの洗礼、みんなが見える真ん中に洗礼盤を置けばいいと思うかもしれません。洗礼とは信仰の道に入ったこと、新しい歩み、出発を意味します。新しく生まれ変わって新しく生きる。礼拝堂の入口から祭壇へ向かう道があります。この道を通して、祭壇へ進み出ることを通して、常に神様に向かっていくことを意味します。そして、礼拝堂から出て、日常に戻り、また、礼拝堂に戻ってくる。常に原点に帰り、また、歩く、そのことを想い起こすしるしでもあります。

 

復活日の今日、洗礼の更新をしたいと思います。復活日を通して、洗礼の更新を通して、洗礼を受けたことを想い起こし、その気持ちを新たにしたいと思います。留学していた英国の修道会の慣習として、復活日の朝に、大きな水瓶に入った水で顔を洗うという慣習がありました。気持ちが新たにされました。洗礼は1回限り。でも、その心は常に新たにされていくのです。

 

「更新」とは免許の更新とは違います。年取ったので返納します、という話ではありません。洗礼を受けた人はイエスさまの十字架のしるしが刻まれ、一つとなり、それを消すことはできません。何か徳を積み重ねなければ名前が消されるとか、功績を残さねばならないとダメ、何にもできないからダメ、ではありません。

 

ただ、神さまが、復活のイエスを通して呼んでくれている。それに、「はい、ここにいます」と応え、日々、その気持ちを新たにしていくことを大切したいものです。