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復活前主日

 

マルコ15:1-39

 

「教会」であること、キリスト教/キリスト者であることを示す目印として欠かせないものがあります。それは十字架です。十字架のある建物(時に結婚式場やお店もあるけど)を見れば、教会を連想します。世界のあらゆる国々が自国の国旗を持っているように、キリスト教会は十字架を掲げます。アクセサリーとして一般の人々にも愛用される十字架ですが、キリスト教会においては十字架とは教会の「いのち」です。単に見せるしるしではなく、キリストを信じる人のうちに深く刻まれるものです。洗礼を受ける時、十字のしるしをする。それはその人のうちにキリストの十字架が深く刻まれ、十字架に架けられたイエス・キリストと深く結ばれることを意味します。

 

その十字架はイエスさまが生きていた時代の中近東では最も厳しい処罰の道具でありました。イエスさまが過ごしたユダヤ地方はローマ帝国による絶対的な統治がなされていましたが、そのローマ帝国に歯向かう者への極刑が十字架刑でした。今朝の福音書はマルコによる受難物語。十字架に架けられるイエスさまの姿、死の出来事が記されています。非暴力を説き、神さまの愛を伝え歩いたイエスさまの結末は、その最も過酷な十字架刑でした。

 

なぜか? イエスさまの存在がローマ帝国内の安定を脅かすものであるとみなされたからです。このイエスという男を生かしておけば面倒なことになる、と。この男はローマ帝国にとっても、その支配下にあったユダヤ人たち、特にユダヤ教の宗教指導者にとっても厄介な男だと。イエスさまの真っ直ぐで誠実な生き方、姿は、自分たちの地位、身の安全、利益などを確保したいと望む者たちにとっては目障りなものと映ったのでしょう。イエスさまの真っ直ぐなまなざしは、自分本位な心、欺く心、高慢な心をじっと見つめられます。偽り者にとっては「もう、見るな」と塞ぎたくなるほどに。

 

そのイエスさまはそうした偽り者、自分の身の安全しか考えない者たちの手に落ちていきます。でも、本当は、実際は落ちたのではなく、イエスさま自身が進んで、その人たちの手の中に入っていかれたのです。自分を捕らえようとする人たちに刃向かうことなく、抵抗することなく、されるがままに身を委ねます。十字架につけられる時には、手には何も持つことがないように広げられ、釘で打ち付けられ、抗うことなく、苦しみを耐え忍ばれます。イエスさまの同胞の多くのユダヤ人にとっては耐え難い姿である。なぜなら、彼らにとって「正義=正しいこと」のためには武器を取り、戦うことも厭わないという心があった・・・。しかし、イエスさまが示した「正義=正しいこと」とは、そうではありませんでした。イエスさまが示したのは同胞たちが考える「正義」ではなく、神さまの正義でありました。それは、わたしたち人間の思いを遥かに超えるものでした。それは、どのような人間であろうとも、両手を広げて迎え入れることであった。武器を持っている者であろうと、罵る者であろうと、そのまま迎え入れることでありました。

 

全知全能の神さまの子であれば、ちっぽけな人間など簡単に吹き飛ばすことができたでしょう。しかし、それをなさらない。全知全能の神様の子なのに、ただ、ただ、苦しみ、痛み、悲しみを担い、耐え忍ぶだけでした。死に至るまで。死ぬ寸前に、一発逆転といったドラマチックなクライマックスはなく、死に至るまで、無力で、無惨なままに、両手を広げてあらゆるものを迎え入れ、死に至ったのです。何も言わずにただ、迎え入れるだけ。どんな人間でも両手を広げて抱きしめるために。全てを抱きしめ、包み込む懐の深さ。イエスさまの十字架には言葉に言い表すことのできない「愛」が示されているのです。その「愛」を聖なる1週間を通して深く思い巡らしたいものです。