エレミヤ31:31-34, ヘブライ5:5-10 ヨハネ12:20-33
先日「ゲノム編集」という用語を耳にしました。2012年に開発された革新的な技術であり、DNAの配列を意図的且つ正確に、しかも容易に変化させることが可能となり、これを利用することによってこれまでは難しいと考えられてきた様々な生物種の遺伝子のはたらきを調べることができるようになり、医学面で目覚ましい研究成果をあげることができるようになっているそうです。それはこれまで治療が難しいと考えられていた病気の治療の克服や予防にも繋がる有益なものですが、他方、遺伝子を操作することによって人間の好みの赤ちゃんを誕生させることも可能だということで、そのようなことが倫理的に許されることなのだろうか、という問題があります。これらの背景には、この世での生をいかによりよく生きるか?この世での人生をいかに享受するか?という現代人の要望にどこまで可能な限り応答できるか、思いが反映されています。
今朝の福音書はイエスさまの受難、十字架の死を暗示する場面です。イエスさまの十字架への道行の覚悟が示されている箇所です。麦という日常生活での食の面を支える重要な穀物を用いての喩えによって、イエスさまの十字架の死がどれほどまでにわたしたちの世界、わたしたちにとって意味のあるものであるかを伝えています。イエス様の死によって多くの実りが与えられるか、という宣言があります。
「死」は「死」でしかないというのがこの世的な理解です。死ねば全てが終わる。どんなに幸福であろうとも死ねば全てが無である、という理解です。どうせ死ぬならこの世での生を存分に楽しもうと考えます。この世での生こそがすべてだ、自分がいかに好きなように生きるか、どれだけこの世での生を楽しめるか、というのが一番の関心です。
そして、この世での生の最も幸いなことはこの世で成功するー富、地位、名誉、名声などを得ることーことであると考えます。先ほど、遺伝子操作によるデザインベイビーに言及しましたが、技術を通して、知性、容姿、運動能力等に優れた人間をいかに増やすことができる、自分の願い通りにデザインできるようになれば多くの人が幸福になれる、無力さ、病、貧しさ、脆さ、弱さなどは不幸である、と考える。
果たしてそうなのでしょうか? 外面的なものだけを満たせば、人はみんな幸せになるのでしょうか?
今朝のイエスさまの言葉は現代人の望みとは真逆のことを語っておられます。自分で自分をあらゆるもので身を固めて、いろんなもの纏っていくことではなく、むしろ、裸になっていく、空っぽになっていく、殻を割っていく、という生き方を示しておられます。いろんなものを身につけて武装していくのではなく、重たいもの、身動きな効かなくなるようなものは脱ぎ捨てて身軽になっていく、何にも無しになっていく生き方を示されます。まるで裸で生まれてくる赤ちゃんのように、この世の死の先にある永遠のいのちに向かって、神さまに向かって、新しく生まれる備えをしていくことへと招きます。
その道はすでにイエスさまによって切り開かれ、整えられています。あとはイエスさまと共に、イエスさまのように生きるようにと招くイエスさまのところへと向かっていくかどうか、決断を求められているのだと思います。