歴代下36:14-23, エフェソ2:4-10 ヨハネ6:4-5
今、拝読した福音書はイエスさまがわずかパンと魚を多くの人たちと分かち合わう物語です。以前、ある方から「教会では”わかちあう“という言葉をよく耳にしますけど、なんかしっくりいかないというか、よくわかりません」、そのように言われ、その言葉の意味を思い巡らしたことがあります。「分かち合う」とは、ある程度の人数がいる中で、何かひとつのもの、少ないものを使わなくてはいけないときや、わずかしかない食べ物をみんなで分けたり、共有したりすることだと思いますが、単にモノをわけあうということだけでなく、わたしたちの持つ心や気持ちを互いに共有する、ということを含んでいるように思います。教会の聖書の学びの中で、互いに読んだ箇所を通して感じたことを語り合うことがあります。他者の感想に耳を傾ける中でその人の想いに触れます。「分かち合う」とは自分の気持ち、感情、他者の気持ち、感情を共有することを含むことだと感じました。
今朝のヨハネ福音書の箇所は有名な「5000人の給食」の物語ですが、詩篇23編との関連があります。「主は私を緑の野に伏させ、憩いの汀に伴われる。主は私の魂を生き返らせ、御名にふさわしく、正しい道へと導かれる(2-3節」という主なる神への信頼が謳われている詩です。さらに、この物語でのイエスさまのことば、振る舞いは、イエスさまを記念して献げる聖餐式との関連もあります。この物語はわずかのパンと魚が増えてたくさんの人の空腹を満たしたという奇跡物語として、わずかなパンと魚が増えたことに目を奪われがちなのですが、それとは違ったところに目を向ける必要があります。それはイエスさまのところに向かい、ことばを聴きたいというそこに集まった人々のイエスさまに対する篤い信頼の心と、ご自身のもとにきた多くの人々の飢えと渇きを満たしたいというイエスさまの憐れみの心が一つになったことです。
イエスさまがもたらす奇跡とは見せ物的なもの、魔術的なもの、自分の力を誇示するものではなく、イエスさまの憐れみから生じるものです。イエスさまの想いとそこに集う人との想いがお互いに行き来して、お互いが信頼のうちに想いを共有することを通して、心と体が満たされていくという出来事が重要なのです。
イエスさまが与えてくれたパンは今朝の特祷にあるように「命のパン」です。単なる食べもののパンではなく、わたしたちの身体、心を癒し、満たし、活力を与えるものです。心の悩み、苦しみ、痛みを癒すものです。それはわたしたちに与えられる聖書のことばであり、また、聖餐式で与るパンとぶどう酒であり、また、聖書を通してわたしたちに語りかけるイエスさまであります。これらを通してイエスさまの想いを自分自身が信頼のうちにしっかりと受け取り、イエスさまの想い、私たちの想いを共有すること、「わかちあう」機会がわたしたちに与えられています。
大斎節を通して、イエスさまの受難の道へと思いを馳せていきますが、イエスさまの受難への道行の姿、言葉を深く想い巡らすことを通して、イエスさまの受難の意義、その出来事から注がれる恵みを深く実感することができますように祈りたいものです。