出エジプト記20:1-17, ローマ7:13-25 ヨハネ2:13-22
ユダヤ教の神殿とは神さまが住んでおられるところ、神さまの家であると理解されていました。しかし、イエスさまはその神殿の中で大暴れし、その中を一掃し、神殿の崩壊を予言します。イエスさまの目には神殿が祈りの空間ではなく、人間の欲、商売に目が眩んだ人々に満ちた空間と映りました。イエスさまがこれほど激しくお怒りになられた箇所は他にはありません。それほどまでに当時の神殿に従事している人々の心は欲に満ちていたのでしょう。神殿に仕える人々は宗教を信じる人々、神さまを信じる人々です。しかし、イエスさまの思いに適う人々ではなかったのです。
宗教とは英語で<religion:レリジョン>と言います。語源<re-ligion>は「再び、結びつける」という意味があるそうです。何に結びつけるのか? 神さまと人を結びつけるもの、それが「宗教」という語が意味するものです。しかし、今朝のイエスさまの振る舞いが示しているものは、当時の神殿に仕える人々は、その神殿は、神さまと結ばれるところではなく、商売(お金、利益)というものに結ばれていたところであった、ということです。
イエスさまの神殿での言動は、本来あるべき姿に戻すと同時に、そこに新しいものを与えることへとつながっていきます。神さまに祈るところ、神さまの家としての空間を回復すると同時に、新しいつながりへと導くものでありました。
「この神殿を破壊してみよ。わたしは三日でそれを建て直す」というイエスさまの言葉。イエスさまが建て直すと言っておられるのは、イエスさまの復活によってもたらされる新しい神殿です。それは豪華絢爛な人間の手による神殿ではなく、神さまによって与えられた復活のイエス・キリストのからだです。
わたしたちの教会は建物を持っています。世界中に荘厳な大聖堂があります。多くの人々が観光に訪れ、その美しさで魅了します。しかし、いつかは朽ちます。修理や建て替えが必要です。お金が必要です。だけども決して朽ないものがあります。それは目には見えないものですが、教会の土台となっているものです。それは復活のイエスさまです。これが教会の礎です。そして、イエスさまを通して、神さまに祈りの献げ、イエスさまが示された道に生きる人々が「教会」を構成するのです。教会とは新約聖書原典の言語では「エクレシア」と言いますが、それは「外から呼ばれる」という意味を持っています。イエスさまを通して、神さまに呼ばれた人々の集い、神さまに祈る集いが「教会」なのです。
しかし、お金に目が眩んだり、自分たちの利益を求めたり、自分たち本位の教会を作ろうとするのであれば、今日の福音書でイエスさまが厳しく戒められた神殿と化すのです。組織とはそこにいる人々の心、生き方を反映します。人間本位な教会、自分たちのことしか考えていない教会は真の教会ではありません。イエスさまのからだである教会ではありません。それは自分たちだけの居心地の良いサロンです。祈りのうちに、生けるイエスさまを通して、生ける神さまとつながり、神さまと他者に向かって生き、精錬されることを通して真の教会となるのです。