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大斎節第2主日

創世記221-14, ローマ8:31-39 マルコ8:31-38

 

旧約聖書のヨブ記の言葉にありますように、人は何にも持たないで裸で生まれ、そして、死ぬときにはこの世で持っているものを何一つ持っていくことはできません。しかし、理屈はわかっていても人生を通して自分が得てきたものを手放すことは簡単ではありません。

 

モノだけでなく、大人になっていくにつれていろいろなものを身につけていきます。プライドやこだわり、他人からの賞賛を求める心、虚栄心などさまざまなものを捨てていくことは難しいことです。他人にはそんなもの、手放せばいいのに、簡単に口にしますが、実際に自分のことになると潔く、手放すことができない自分に気づくことがあります。

 

「こんなに頑張ってきたのに自分の望み通りにならなかった」、「あの頃はよかった」、「期待していたことが起こらなかった」、「周りが自分を正しく評価してくれていない」など、人生は不公平だ、こんなはずではないと、自分の人生を嘆き、苦々しく生きてしまう、そのようなことがあります。

 

イエスさまの生き方、特に十字架へと向かっていくイエスさまの生き方は、すべてを手放していく生き方でありました。それまでに得た周りの人たちからの賞賛、人気、成功など、すべてを手放していきます。ずっと一緒にいた弟子たちも、自分たちが描いていた道、ビジョンとは全く異なるものをイエスさまが示した時、失望感に覆われました。

 

弟子の中でも上昇志向の強いペトロは、イエスさまの受難予告を聞き、イエスさまをいさめます。イエスさまがそれまで築いてきた多くの人たちからの期待、希望、信頼、人気などをすべて捨ててしまうことを受け入れることができなかったからです。イエスさまと共にいることを通して、自分たちも周りからの賞賛、尊敬、成功を享受できると期待していたからです。

 

イエスさまは新しいいのち、復活のいのちを得るためには、この世的なものへの執着、自己中心な生き方から離れる必要があることを示されました。他者からの誉れ、人気、賞賛、そして、この世的な成功、地位は一時的なもの、朽ちるものであり、永続するものではないことを示されました。

 

イエスさまにとっては、神さまに向かっていく生き方、神さまと結ばれていくことこそが自分にとって一番大切であることに気づいておられました。それはこの世的なしがらみ、足枷手枷から解放するものであることを知っておられました。

 

イエスさまのこの生き方は、イエスさまの復活の出来事に触れるまでは理解されることはありませんでした。復活の出来事を通して、新しいいのちに満ちたイエスさまの出会いを通して、イエスさまの生き方、受難・復活に対する言葉が活力、勇気、希望を与えるものとなりました。

 

わたしたちはこのことを知っています。苦しみ、悲しみ、失望の先に光があり、喜びがあり、朽ちることのない神さまとのつながりが与えられることを知っています。大斎節から復活日に向かう道のりの中で、このことを絶えず想い起こしていくのです。