列王上 19:9-18, 2ペトロ Ⅰ:16-19 マルコ 9:2-9
2月17日から教会の暦は大斎節に入ります。今日の主日は大斎節前主日と呼ばれますが、顕現節から大斎節への転換点です。そして、今日のマルコ福音書9:2節からのイエスさまの変容の物語もまた、イエスさまの生涯における転換点とも言える場面です。あらゆるところでイエスさまは癒しや悪霊を追い出す業を行ってきたイエスさまは、3人の弟子たちと山へ登り、そこで変容の出来事が起こります。そして、下山していくのですが、下山後のイエスさまの道行は、エルサレムへの道、すなわち、十字架への道へと向かっていきます。あちこちで積極的な宣教活動を行ってきたイエスさまの歩みは、エルサレムという一つの場所へと向かっていきます。
そのエルサレムへの道、十字架への道へと進んで行く前に、イエスさまは3人の弟子たちを連れて山に登ります。聖書における「山」とは神さまに近づく場所、神さまと出会う場所として描かれているところです。山に登ると地上では見ることのできない、広く壮大な景色を見ることができます。広く壮大な景色を通して、人間の小ささを感じることがあります。その山の上で、イエスさまは自らの本来の姿をちらりと3人の弟子たちに見せました。マルコは「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」と記していますが、人間には出すことができない真っ白な輝きがイエスさまの変容を通して明らかにされたことを伝えています。
イエスさまは神の独り子としての栄光の輝き、本来の姿を3人の弟子たちに垣間見せます。その後、3人の弟子たちは、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声を耳にします。聖書における「雲」は目には見えない神さまの臨在を意味することがありますが、雲から神さまの声を聞いたのです。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という雲からの声。「これはわたしの愛する子」とはイエスさまを指しています。イエスさまの弟子たちは、多くの人々を癒し、奇跡を行い、積極的に活動するイエスさまの弟子として、イエスさまについて行くことでこの世的な成功、賞賛、地位、名誉を期待していました。しかし、そのイエスさまが下山した後に向かうのは、先に述べましたように、十字架の道、すなわち、無力となり、他の人たちに引き回され、苦しめられる道です。弟子たちの期待していたものとは全く異なるものでありました。苦しみに向かい、それを担う道にイエスさまは向かっていきます。雲からの声は、このような道に進んでいくイエスさまこそが愛する子であり、このイエスさまに聞き従うようにと呼びかけるのです。
幸せな人生を思い描いてクリスチャンとなったのに、苦しいことが消え去らない。自分が描いていたイメージとは全く違う人生を歩むことになった。なんてことだ。クリスチャンとなったのに良いことが続かない。誰も褒めてくれない。信仰生活の中でこのような悲しい思い、失望を抱く時があります。しかし、その悲しみ、失望の只中に、そこに寄り添われるイエスさまがおられます。私たちに先立って、私たち人間が抱く悲しみ、苦しみ、悩み、痛みを担われ、死なれたけれども、その死から復活し、新しい、神のいのちを受け、そして、今、ここに、生きておられるイエスさまがわたしたちと共におられます。
消えてなくなるもの、長続きしないこの世的な栄光、名誉、賞賛、成功ではなく、本物の栄光を身に帯びたイエスさまがおられます。イエスさまによってわたしたちの人生の価値観が変えられていきます。暗闇は光へ、失望は希望へと変容されていくのです。