マルコ 1:29-39
「イエスは起きて、人里離れて所へ出て行き、そこで祈っておられた」
イエスさまの日常には静かなところでの祈りの時間というものが絶えずありました。「人里離れたところ」とありますが、イエスさまは喧騒から離れ、一緒にいた弟子たちとも離れて、一人で静かなところで祈る時間を大切にされていたことが今日の主日のマルコ福音書の箇所から読み取ることができます。
イエスさまは他者とともにいること、繋がり合うこと、支え合うことを大切にされ、それを弟子たちや多くの人々に説かれましたが、同時に一人になって、神さまとの時間をゆっくりととることの大切さをイエスさまの生き方を通して伝えられていたように思います。
コロナ禍で勤務時間が時間短縮となり、満員電車に揺られ、電車の中からの景色も見ることもなく、バタバタと行き来していた通勤が、ガラガラの電車の中から夕日を見ながら帰宅し、子供と一緒にいる時間を過ごすようになってから、今までどれだけバタバタと余裕なく生きていたのだろうと感じるようになった、そのようなことを話してくれた方がおられました。
慌ただしく、バリバリと働く方が気持ちいい、もっともっと働きたい、そのように感じる方もおられますが、1日の中で、ゆったりと心を落ち着け、心の中にゆとりを持たせる時間、空間はわたしたち人間にとって必要なことなのだと思います。
イエスさまは日々、多くの人たちに取り囲まれた慌ただしい1日を過ごしていました。休む間も無くいろんな人がイエスさまのところに来て、話を聞いてください、助けてください、癒してください、なんとかしてくださいと急き立てられる日々でありました。
そのような慌ただしい1日を生きる源となっていたのは、静かな場所での静かな時間の中での祈りの時間でありました。祈りを通して、神さまとのゆったりとした時間を過ごし、そこで心の中にゆとり、平安、安らぎを得、
そして、忙しい日常へと出て行かれたのでした。心のゆとり、平安がなければパンクします。会話や振る舞い、表情を通して、心のゆとりがある人とない人を見分けることができます。慌ただしい中にあっても、心のゆとりのある人からは平和な雰囲気が醸されているのです。そこから他者を癒すことができるのです。
この箇所を読むたびに自分の生き方、自分の雰囲気はどうなのだろうと振り返る機会が与えられます。何か忙しそうだな、心のゆとりがなくてイライラしてそうだな、そんな空気を醸してないだろうかと自省します。
イエスさまの祈る姿をいつも思い起こしながら、祈りの大切さ、少しの時間でも静かな時間を取る時間の大切さを胸に留めておきたいものです。