申命記 18:15-20 コリントⅠ 8:1b-13 マルコ 1:21-28
「黙れ。この人から出て行け」
今朝の福音書の中でイエスさまは汚れた霊に向かって命じます。「黙れ」と。マルコはイエスさまのことばは、人間を苦しめる汚れた霊を抑えつけ、放り出す力(権威)を持っておられることをわたしたちに伝えてくれます。マルコは福音書の初めにイエスさまが汚れた霊を追い出す姿を書き記しています。マルコにおいてはイエスさまの宣教の中心は人間を苦しめる汚れた霊を追い出すことであることが示されています。
マルコにとって汚れた霊(悪霊)とは、人間を誘惑する者、神さまの言葉を奪い取る者、人間から神さまを遠ざけようと試みる者です。神さまがいなくても富があればいい、地位や権力、名声さえあれば人間は幸せに生きていけると囁き、神さまとすり替える者です。「あなたに何ができるのか?」と不安を煽り、自己不信に陥らせる者です。汚れた霊は目には見えない存在ですが、わたしたちの心の中に絶えず入っていこうと試みる者です。
わたしは毎週に神学館に行っておりますが、午前の授業の後、夕方から館長と神学生たちと共に聖書の言葉を読み、黙想し、その後、分かち合う時間を過ごしています。一人ひとり、異なる年代であり、異なる環境の中で生きてきた中で、今は共に学び合う時間を過ごしていますが、それぞれが何かしらの不安や恐れを抱いています。「これから先どうなるのだろう」、「自分はどうなるのだろう」、「自分に何ができるのだろう」という不安や恐れをみんな抱いています。コロナ禍という困難に苦加え、何十年先の教会はどうなっているのだろうか、自分たちは何かの役に立つことができるのだろうか、この先、ちゃんと生活していけるのだろうかと、いろんな不安を吐露します。
神さまの存在、神さまの愛を信じて、神学館に飛び込んできた人たち、それを受け止める人たち、それぞれが不安や恐れを抱いているのです。教会生活を送っている信徒の方々も同じような不安を抱くことがあるでしょう。先行きを心配して慎重に生きることは大事ですが、過度の心配、不安、恐れは人間の心と身体の両方を蝕んでいきます。
しかし、毎回、聖書の言葉を聴き、祈り合うことを通していく中で、その不安や恐れの中に入ってこられるイエスさまの存在を感じます。イエスさまは神さまの言(ことば)である、聖書ではそう宣言されています。目には見えない神さまの存在、愛、憐れみを、わたしたちにはっきりと示してくれるのがイエスさまです。そのイエスさまは、わたしたちを不安や恐れに陥らせる目には見えない汚れた霊をじっと見つめ、「黙れ、出て行け」と放り出してくれるのです。
不安、恐れに陥っている時、陥りそうになった時、イエスさまはそこにおられます。不安や恐れが絶えない行き先が見えない中で、そこから救い出してくださるイエスさまに絶えず祈り求めましょう。