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顕現後第1主日:主イエス洗礼の日

 

毎年1月1日、元旦礼拝をお捧げしますが、教会の暦ではこの日は「主イエス命名の日」と定められています。そのタイトルの通り、イエスという名が命名された日を想起し、お祝いします。

イエスという名の意味は「神は救う」という意味があります。その名の通り、イエスさまは神さまの救いをもたらすために来られ、時が満ちた時、その神さまの救いをもたらすための宣教の旅を始めます。

 

イエスさまの宣教の旅はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けることから始まります。

洗礼者ヨハネはイエスさまのまたいとこです。イエスさまより数ヶ月年上でした。ヨハネの父は祭司ザカリアでしたが、父と同じ祭司にはならず、荒れ野に向かいました。

 

第二次世界大戦後、死海の西北にあるクムランと呼ばれる地域の洞窟で多くの写本が発見されました。その写本を通してこのクムランにはエルサレムの神殿とは距離を置いて荒れ野で修道院的な生活をしていたユダヤ教のグループの存在、生活の一端を知ることができました。彼らは簡素な生活、祈り中心の生活を送っていましたが、水による浄めも行っていたようです。洗礼者ヨハネはこのグループと何らかの関係があったと考えられます。

 

そのヨハネは時が満ち、ヨルダン川で「罪の赦しの洗礼」の呼びかけを始めます。彼の呼びける洗礼は、さきほどお話した修道院的グループが実践していた水による浄めの儀式とは異なるものでありました。繰り返し行う水洗いの儀式ではなく一回限りの水洗いへの招きでした。一回限りの回心への呼びかけでした。この呼びかけに多くの人々が集まります。

 

多くの人々はヨハネの呼びかけを聞き、集まりました。しかし、ヨハネが語る呼びかけには、自分とは別の存在、自分よりも力ある方のこと、即ち、イエスさまがおられることが宣言されていました。ヨハネ自身は「水」で洗礼をするが、イエスさまは「聖霊」で洗礼を授ける方なのであると。自分よりも優れた方、偉大な方であると。

 

しかし、ヨハネ自身が自分より力がある方であると宣言し、水以上のもの、これまでには聞いたこともない聖霊による洗礼を施す方である、と宣言されているイエスさま自身が、ヨハネのもと来て、ヨハネから洗礼を受ける、という場面が今朝のマルコ福音書にあります。罪の赦しを求め、罪の告白をし、新しく生きるための洗礼を求める人々の行列に、イエスさまが並んでいるのです。他の人々と並んでそこにいる。どんな状況だったのでしょうか。そこに並んでいた人々は、イエスさまこそがヨハネが示す方であるということに気づいていたのでしょうか。気づいていなかった人がほとんどだったのではないか。

 

洗礼には罪の告白をし、古い自分を脱ぎ捨て、新しく生まれ変わることです。今、ここに集っているわたしたちの多くは、イエスさまがどのような方であるかを知っていると思います。神さまの独り子であるイエスさまがこの世界に人としてお生まれになったことを知っています。真の神であり、真の人であるイエスさまに向かって礼拝を通して祈ります。そのイエスさまが他の人々と同じように罪の告白をし、古い自分を脱ぎ捨てる必要があったのでしょうか。

 

先ほど、「イエス」という名は「神は救う」の意味があり、イエスさまはその名の通り、神さまの救いをもたらすためにわたしたちの生きる世界にこられた、そう話しました。そうです。その救いをもたらす第1歩は、罪、脆さ、弱さを持つわたしたち人間のところに来ること、繋がるということです。わたしたちがどのような状況の中にいるか、どんな状態か、それを見て、知る必要があるからです。

 

わたしたちは「神さまは共にいる」と口にしながらも、その存在を遠く、高いところおられるもの、高貴で、偉大で、汚れとは無縁なところにあると考えます。しかし、イエスさまを通して、イエスさまがあえて他の人々と同じ水洗いに与られたのは、「罪」を持つわたしたちと「つながる」ためです。わたしたちの罪に触れて、そこから、わたしたちを解放するために、イエスさまがわたしたちのところに入ってこられるのです。

 

「罪」とはなんでしょうか?聖書が示す「罪」は神さまから離れること、神さまに背くことです。神さまの想いとは違う振る舞いをすることです。自分本位という言葉もありますが、無意識に違った方向を向いてしまっていること、的外れなことをしてしまうことも含まれます。誰もがこれらのことを行ってしまうことがあるでしょう。

 

回心や罪の赦しとは、神さまと深くつながる機会なのです。自分が遠く離れていても、背いていても、そこに向かってきて、つながりを再び回復させる機会が与えられるものなのです。新しい生き方へと歩む機会を受けることです。弱くても、脆くても、足りなくても、イエスさまを通して神さまとつながって生きることができる機会が与えられるのです。

 

自分で自分は救えません。人間中心、自分中心な自分から離れ、神さまに向かっていき、神様によって救われることへとイエスさまは招いてくれているのです。