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降誕後第2主日

 

新しい年の最初の主日です。年末から新年にかけて寒い日が続いておりますが、冬の夜空は1年の中でもとりわけ透き通っているように思います。星が見える日はくっきりと綺麗な星が見えます。英国に2度、滞在する機会が与えられましたが、どちらも今住んでいるような町ではなく、ビルなどもない簡素な田舎でしたが、周りに建物が全くないところで見る夜空はとっても神秘的でした。真夜中に庭を見ますと庭の芝生が月明かりに照らされてこれもまた綺麗で神秘的な雰囲気がありました。

 

明石には天文台があり、我が家の子どもたちは何度も行っておりますが、そこで見てきたこと、星のこと、宇宙のことを色々と教えてくれます。関心があるようです。今朝の福音書では「星」、「占星術」の学者が登場します。福音書に出てくる占星術の学者を巡っては様々な議論がありますが、イエスさまがお生まれになったベツレヘムからはかなり遠く離れた地に住む天文学の知識を持った天文学者であったと言われています。

 

しかし、その星を見る目は今日における天文学者たちと異なっていました。東の方からの学者たちにとっては、星は単なる物質的なものというよりは、それ以上のもの、霊的なものでありました。その星の動きを通して、何かそこに自分たちに対する天からのメッセージが込められている、そのような意識を持っていたのです。

 

こうしたことからこの福音書に登場する占星術の学者は天文学の知識を持っていたと同時に、星占い師的な存在であったのではないかと考えられておりますが、この福音書に見られる学者たちは単なる天文学者、星占い師ではないように思います。

 

彼らが住んでいたところからイエスさまがお生まれになったユダヤのベツレヘムは相当な距離がありましたし、この地は彼らにとってはまったく未開の土地であり、どのようなところかも知らないという旅に出るのは、相当の覚悟が必要だったことでしょう。現代人が持っているような詳細な地図、グーグルマップもない、ナビゲーションもない時代です。その旅路の中に何が必要であるとか、どのようなことに注意しなければならないとか、というガイドブックもなかったのです。彼らは冒険、旅する心、探し求める心を備えた人たちであったのです。行き先はどんなところかわからない。だけども、その星の導き、しるしを通して、ユダヤ人の王、まことの王、救い主との出会いがある、そう信頼して、踏み出していった人たちであったのです。

 

 

「マリア」という映画が以前、公開されましたが、その中では占星術の学者たちはメルキオール、バルタザール、ガスパールという名で登場しますが、その旅路の中で不平や愚痴を言い、後悔するような姿も見せますが、旅を続けていきます。旅に出よう、天からのしるしに従って救い主に出会いに行こうと出発した旅路は順風満帆なものではなかったと思います。不安や疑い、後悔に何度もさらされながら旅をしたのだと思います。彼らのこの旅路は、わたしたちの教会/信仰生活の旅路にも似ているように思うのです。

 

 しかし、彼らは絶えず、そのまなざしを天に向けて、そのしるしを見続け、希望を失うことはなかったのです。そして、遂に、まことのユダヤ人の王として、救い主としてお生まれになられた幼子イエスさまと出会うことができたのです。

 

わたしたちはこの出来事に思いを馳せていきたいと思います。2000年以上前のこの物語のうちに示されているこの出会いの場面は、今、ここに生きているわたしたちにも起こるものとして、この物語を読むことができます。2000年以上前に天からのしるしを通して、占星術の学者たちを導いた神さまの働きは、今、ここに生きるわたしたちにもあるのです。今、ここにいる、わたしたちに深く関係する出来事であるのです。わたしたちは絶えず真理、本当に確かなもの、確かな救いを与えてくれる神さまを探し求めるようにと招かれているのです。

 

この占星術の学者たちはそれぞれ3つの贈り物を携えて旅をし、そして、幼子イエスさまに献げました。この場面はクリスマスのクリブや絵画に反映され、多くの人々に知られた場面となっておりますが、教会の伝統の中には、この3人の占星術の学者たちを青年期、成人期、老年期という人間の年齢の各段階に割り当て、人生を通しての神さまの探求というものを示すものがあります。わたしたちの探求の旅には終わりがないのです。この地上の旅路を終え、天へと上げられていくという時までは、その旅路は続くのです。それぞれの人生の段階の中で、神さまに出会う道が備えられていること、そして、そこで新しい出会いがあり、そこに喜びが与えられるのです。

 

新しい年の始まりの主日、このことを心に留め、新しい旅立ちを記念して、心を込めて礼拝を続けてまいりましょう。