· 

降誕後第1主日

 

クリスマスを迎えた後の最初の主日です。

 

今から20年前、長く教会から離れていたわたしは両親やその周りの方々から神学館に入り、聖職志願する道への勧めを受けました。最初は断りました。しかし、約1年後、あるキッカケがあり、その道に進んでいくことを決断しました。

 

これまでの道を外れて、神さまのこと、イエスさまのことを学ぶ、という生活が始まりました。それまで熱心に教会生活を送っていなかったわたしにとって、日々の祈り、勉学、共同生活には苦労しました。特に、キリスト教について、聖書について勉強する、という生活に慣れるには相当の時間を要しました。「なんのためにこんな難しい勉強をしなければならないのか?」という疑問をいつも抱いていました。それでも周りの方々の支えもあり、なんとか必死でついていって卒業して、あちこちと様々なところへ派遣されて、今、ここにおります。

 

今も引き続き、神学というムズかしい学問を続けておりますが、神学館入学から今に至るまでの年月を通して感じていますことは、キリスト教というもの、神学というものを通して示されているものとは「つながり」ではないか、そのように感じております。

 

神さまと自分との「つながり」、イエスさまと自分との「つながり」、人間同士の「つながり」、このことについて思い巡らしていくこと、この「つながり」の大切さを宣言していくことがキリスト教の宣教、信仰であるように感じています。

 

わたしたち人間との深いつながりを築くために、神さまの独り子であるイエスさまがこの世界に宿られた、と今朝のヨハネ福音書は宣言します。「宿られた」とは天幕を張る、住む、という意味も含んでおりますが、それは、わたしたちが生きる世界との「つながり」を深めるために、そこにいるために、イエスさまがこの世界に来られたことを示しています。目には見えない神さまを、目に見えるカタチとして、イエスさまが人となり、それを映し出すためにです。

 

この世界に神さまの独り子として来られたイエスさまのことば、振る舞いの中心にあるのは、「つながり」です。神さまとご自分とのつながり、ご自身と出会う人たちとのつながり、人と人とのつながりの大切さを絶えず伝えられました。

 

わたしたちの生きている多様な世界においては、相性の問題、考えや慣習の違いによる争いも絶えませんが、その中にあって「つながり」の大切さというものをイエスさまの御降誕の出来事を通して、今一度、思い起こしたいと思います。

 

今、わたしたちは聖餐式(ユーカリスト)を捧げておりますが、この聖餐とはイエスさまを通して、神さまのもとに集められた食事の空間です。食事とは友情のしるし、言い換えれば、つながりのしるしです。神さまと自分との「つながり」、イエスさまと自分との「つながり」、人間同士の「つながり」が深められる空間です。

 

つながりを深めるためにイエスさまはこの世界に来られ、そして、そのつながりへの招きは今も、これからも続けられていきます。このことを深く味わって、今日のこの礼拝を心を込めて捧げてまいりたいと思います。