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降誕日

 

イエスさまの御降誕を祝う降誕日を迎えました。おめでとうございます。クリスマスは世界中のほとんどの人々が知っている出来事であり、世界中で祝われているものです。異なる宗教を大切にしている方々もクリスマスパーティーなどを開いて楽しんでいることでしょう。

 

今日、降誕日の礼拝において、イエスさまがお生まれになった出来事を思い起こし、祝祭として礼拝を献げております。イエスさまのご降誕の出来事がわたしたちの世界、そして、この世界に生きているわたしたちにとってどのような関係があるのか、この出来事にはどのような意味が込められているのか、この出来事を通してどのような恵みが与えられているのか、思い巡らしてまいりたいと思います。

 

先ほど拝読したヨハネ福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と宣言しています。「言」とはヨハネにおいてはイエスさまのことを指し示しています。福音書朗読前の使徒書ではヘブライ人の手紙では「神はかつて預言者たちを通して、折に触れ、さまざまな仕方で先祖たちに語られたが、この終わりの時には、御子を通して私たちに語られた」と記されています。

 

「ことば」というものに焦点があてられています。目には見えない神さまのこと、神さまの想いをわたしたちに対して、わたしたちがよく聴いて、理解することができるように、その「ことば」を聴いて、わたしたちが活き活きと生きていくことができるために、「ことば」が与えられた、ということを知ることができます。「言」であるイエスさまの語る「ことば」を通して、神さまのことが余すことなくわたしたちに伝えられたと宣言しています。

 

イエスさまの「ことば」。それは聖書を通して見て、聴いて、知ることができます。イエスさまの「ことば」の土台にあるのは、神さまはいつも生きておられ、共におられ、ひとりひとりを大切に想ってくれていること、この神さまといつも一緒にいるようにとの招きです。

 

わたしたち現代人も「ことば」を用います。様々なことばが行き交いしています。会話、インターネット、S N Sなど、モバイルを通してことばが行き交いします。多くのは目で見るもの、文字として書かれたもの、それを見て認識する、そのようなイメージを抱いていると思います。

 

しかし、イエスさま含め古代の人たちにとって「ことば」とは書かれたもの、語られたもの以上のものでした。「ことば」は生きており、歩き回るもの、生きた存在として「いのち」を持っているものと理解していました。

 

「ことば」は人を活かすものです。「ことば」によって傷つけられ「いのち」が失われるという悲しい出来事が現代社会には見られますが、「ことば」とは人の「いのち」に深く触れるものであります。

 

余談ですが、ある方から聞いたことのなのですが、現代人が1日にテレビ、新聞、スマートフォンなどで入ってくる情報量は江戸時代の人の1年分に相当するそうです。何気なくスマートフォンを触っていることを通して数えきれないほどの「ことば」に触れており、気づかないうちに「ことば」の洪水に飲み込まれているのです。何が本当に大切なことばなのか、何が自分の心を豊かにするのか、識別する必要があります。

 

わたしたちは「ことば」の重み、そのことばの力を心に留めておきたいと思います。先ほど「ことば」は人を傷つけ、いのちを奪うものであると言いましたが、同時に、ことばは人を生かし、いのちを与える、豊かないのちにするという力を持っています。

 

イエスさまのご降誕を通して豊かないのちとなる「ことば」が与えられました。そのことばは聖書を通して、礼拝を通して触れることができるものとなりました。神さまは聖書を通して、わたしたちひとりひとりが尊い存在であり、愛されている存在であることを伝えてくれていることを思い起こしたいと思います。

 

聖書の中にあるイエスさまを通して示されている「ことば」は決して朽ちることはありません。この「ことば」はいのちを持っており、この「ことば」に触れる人々は絶えず新しいいのちを受けるのです。この「ことば」が与えられたことを心より感謝し、降誕日の礼拝を続けてまいりましょう。