クリスマスイブの夜を迎えました。祝いの時が訪れました。
2000年以上前のベツレヘムという小さな田舎で生まれイエスという方の御降誕の出来事を祝う日として、世界中の教会で祈りが捧げられております。
今宵は「7つの日課とキャロル」という聖書朗読と聖歌が中心となった礼拝を捧げております。コロナ感染症予防ということで、通常の形とは異なり、「小さく、祈るような声で、聖歌を」というお願いをさせていただきましたが、今宵、聖書と聖歌を通して、この世界に来られた御子イエス・キリストのご降誕を祝います。
御子イエス・キリストの誕生の出来事は偶然の出来事ではありません。神さまのご計画のうちに、神さまが、「今、この時」とお定めになった時に、御子イエスがこの世界にお遣わしになりました。聖書にはその次第が記されております。
今宵、わたしたちが耳を傾けている聖書の言葉はすべて、御子イエス・キリストの誕生に関わるものであります。歌われている聖歌もその聖書の箇所に関連する歌です。わたしたちはこの聖書の言葉と聖歌を通して、御子イエス・キリストのご降誕をお祝いすると同時に、この出来事を思い起こします。
思い起こすという言葉は、教会の礼拝においてとても重要なものです。それは過去にこんなことがあったなあ、と単に思い出すというものではありません。
その過去の出来事が今、ここに生きているわたしたちの世界、そこに生きるわたしたちに関わるものである、ということを実感する時、それがクリスマスです。
2000年前のベツレヘムでの御子イエスの誕生を通して与えられた喜び、恵みが、今、ここにいるわたしたちに同じように注がれている、そのことを喜び祝うのです。
2000年前のベツレヘムでの御子の誕生の場面を想像してみてください。御子イエスの誕生に関する聖画や、そして、祭壇前に置かれているクリスマスクリブは時代を通してたくさんありますが、自分なりに今日、耳にしている聖書を通して、その場面に入って行ってください。
イエスさまがお生まれになった空間に自分がいる、そうイメージして見てください。イエスさまの誕生に遭遇した羊飼いたちはどのような思いでその夜を過ごしていたのか? イエスさまがお生まれになったその時代の人々の心がどのようなものであったか?
今も、そしてこの先も安泰だ、素晴らしい未来予想図を描くことができる、というような明るい時代ではありませんでした。ローマ帝国という強大な権力による統治により、一見、大きな争いはなかったものの、富んでいる者と貧しき者の格差があり、力あるものによる弱き者に対する抑圧があり、多くの人々が希望という光を仰ぎ求めていた時代でありました。
そのような暗闇の中に希望という光を与えるために神さまのもとからその独り子である御子イエスが来られたのです。真の人として、わたしたちと同じように無力な赤ちゃんとして、この世界に来られました。
それはこの世界に生きる人々と暗闇、苦しみ、悲しみと連帯するためです。わたしたち人間が抱く暗い心を受けとめ、理解し、寄り添い、光へと導くためです。
あれから2000年以上経った今も、世界は混沌としています。コロナウィルスという未曾有の感染症の拡大、また、今もなお世界のあちこちにある紛争、抑圧、そして、富んでいる者と貧しき者の間にある格差、民を治める指導者たちの不正義など、わたしたちを不安に陥れる事柄がたくさんあります。希望を見出すことができない若者、疲れ果て、生きる気力を失った中高年世代の人々がおられます。
このような暗い出来事、状況を神さまは見つめてくれています。2000年以上前にこの世界に御子をお遣わしになられた父なる神さまのまなざし、働きが今、ここにあります。今、わたしたちの世界に覆う暗闇の中に光を注いでくれるのです。
暗闇のないところに光はなく、暗闇があるから光の存在に気づくことができる、そう言われることがありますが、わたしたちが抱いている暗いところに光を注ぎ、この先の道行きを照らしてくれるのです。今、目の前にあるキャンドルの光を通して、このことを思い起こし、希望のうちに歩んでまいりましょう。