降臨節第4主日

 

降臨節第4主日を迎えました。先日、幼稚園でのクリスマス礼拝の中で、幼稚園での最後のクリスマス礼拝を迎えた年長組の園児たちが素晴らしい聖劇をしてくれました。聖劇とは礼拝の一部です、というアナウンスもありましたが、園児一人ひとりが心を込めて、精一杯、自分に与えられた役を担ってくれました。

 

聖劇の台本や流れはそれを行う幼稚園によって多少異なるところがあるかもしれませんが、聖劇において絶対に欠かせない場面が今朝のルカによる福音書の受胎告知の場面です。牧羊幼稚園の聖劇でも、綺麗な纏った天使たちが登場しました。手にユリの花を持ってマリアへ受胎告知をしました。ユリは聖性に満ちた清純のシンボルでありますが、ユリの花を携えてマリアに告知を行いました。

 

天使ガブリエルによるマリアへの告知は、マリアにとっては大きな驚きと同時に戸惑いを生じさせましたが、マリアはこの御告げに応答します。

 

「わたしは主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」

 

このマリアの応答はマリアの信仰が端的にあらわれています。「わたしは主であるあなたに仕えるものであり、他人の言葉や自分の思いに頼るのではなく、天使を通して与えられた神さまの言葉、神さまの想いを受け取り、そして、それがどんなものであろうとも、自分の身になりますように」、という心。

 

マリアがどれほどまで天使ガブリエルのお告げの内容を理解していたかはわかりません。だけども、マリアはその天使ガブリエルの言葉に従順に応答するのです。「はっきりとわかるまでは、納得するまでは『はい』とは言わない、ではなく、どんな状態に置かれていようとも、天使ガブリエルによって与えられた約束に委ねていく」、そんなマリアな思いが伝わってくる応答です。

 

 

 

この天使ガブリエルとマリアとの対話の場面は、わたしたちの人生にも重ね合わせてみることができるものです。わたしたちの人生においても、戸惑いや恐れ、不安を感じるような出来事に直面することがあります。その出来事を通して、何かを問われていて、それに応答しな

ければならない状況に直面することは大小様々、あると思います。試練や挑戦というものと言えるかもしれません。避けることができればそれでいいのですが、マリアと同様に、避けようとも避けることができない状況は誰にでも訪れます。

 

そのような時にどうするか?ということです。

 

今日の世界においては、A Iとかデータ分析とか、危機管理に関するコンサルティングを通して、いかに自分の人生を安全、安心なものするか、ということに関心が向けられていると思います。この世界の文明の発展は驚くほどに急速に発展し続けているように見えますが、すべてのことを完璧に捉えて生きていく、人生を上手くコントロールすることはできません。

 

1秒先のことも完全にはとらえきれないのです。「どうしてこんなことが?」というような思いに直面することがあるのです。病にしても可能な限り、あらゆる検査などをして、未然に防ぐことができても、完全に病にならないという保証はない。自然災害やその他のこともそう。コロナウイルスの拡大もそう。全てを把握し、制御するようなことはできないのです。(自動運転・危険回避システムは発展しても)

 

「この身になりますように」。すべてをお任せしてする心です。バタバタしても仕方がない、なるようにしてくださる、神さまが、という心で生きていく姿勢です。ある意味、キリスト教の心は楽観的に見えます。しかし、そこにはマリアの言葉に示されておりますように、「わたしは『主の仕え女です』」という、主なる神さまがいつも自分に目を注ぎ、一緒にいてくれるからこそ、すべてをお任せすることができるのです。主なる神への信頼が土台にあります。

 

マリアにはマリアの使命が与えられたように、わたしたち一人ひとりにも、神さまから「あなたはこのようにして、わたしの器として生きていきなさい」という使命が与えられているのです。

 

数年前、日本聖公会150周年記念行事の時、前カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ大主教が来日されましたが、滞在中、立教大学で青年たちとのセッションに参加されました。

 

その時、ある青年からどのように祈ればいいのか、いつもどのような祈りをされておられるのか?という質問がありました。ウィリアムズ大主教は、朝起きた時、「今日の1日、あなたの思いを行うことができますように」と祈っているという答えが返ってきました。マリアの「あなたの思いがこの身になりますように」という心と一致するものです。

 

この祈りを日々、献げつつ、今、目の前にあることを真摯に向き合い、その日、その日を精一杯生きていくことができますように。