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降臨節第3主日

イザヤ65:17-25、テサロニケⅠ5:16-28、ヨハネ1:6-8、19-28

 

 

 

降臨節第3主日を迎えました。今日の主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれる日です。降臨節とは慎ましく、自分を省みる期節でありますが、イエスさまのご降誕の日はもうすぐである、近づいている、それを喜んで待つ、喜び祝うという慣習があります。ピンクの祭色が用いられます。

 

日本聖公会のカレンダーでは今日の主日は先週と同じく「紫色」を用いるようになっていますが、今朝の使徒書であるテサロニケの手紙1では「いつも喜んでいなさい」という言葉がありますように「喜ぶ」ことへの招きを受けています。

 

「喜び」とは何でしょう? 一人ひとりの「喜び」の基準は異なっているかもしれません。

皆さんにとって、一番の喜びは何でしょうか?

 

自分のこと、家族のこと、友人のこと、自分が関わっている仕事のこと、自分の子供、孫の人生が上手くいっていること、上手くいくことは喜びの一つです。それを神さまに願っていく、求めていく。それが上手くいけば、喜びはどんどんと増していく。幸せを実感できる、それが「喜び」だ、そう思うことが多々あります。

 

これからクリスマスを迎え、それが終わるとお正月。多くの日本人はクリスマスを祝った後、お正月にはお寺や神社に行って新しい1年が幸せで、喜びの1年となるようにと祈願する。不幸なことが起きないようと無病息災を祈願する。それが叶えば嬉しい思い、喜びへとなっていく。

 

しかし、今朝のテサロニケの信徒への手紙1にはこれとは異なる「喜び」についてが記されています。この手紙の著者である聖パウロの言葉には“いつも”、喜んでいなさいとあります。「いつも」と言っています。その“いつも”の中には、悲しい時、苦しい時、不安な時も含まれています。その中にあって、喜んでいなさい、と呼びかけてくる。

 

そして、その言葉の後には「絶えず祈りなさい」という言葉が続きます。聖パウロが示している「喜び」とは「絶えず祈ること」とのつながりがあるようです。

 

祈りとは、『〜してください』、『〜が叶いますように』という祈願だけでなく、神さまへの感謝も含まれます。神さまとの対話も含まれます。聖餐式の中で唱える詩篇も、「祈り」の一部です。感謝、祈願もあれば、嘆きもありますが、そこには常に呼びかける相手、すなわち、神さまの存在があります。神さまに向かって呼びかけてく、感謝を捧げる、嘆き、悲しみを訴えていきます。

 

神さまとのつながりの中で、いろんな思いがやがて「喜び」へと変えられていく、それが聖パウロの語る「喜び」です。今は、完全なる喜びには至っていないかもしれない。苦難や悲しみ、不安の只中に置かれているかもしれない。しかし、神さまとのつながりの中で、必ず、それが喜びへと変えられていく。だから、希望のうちに生きていこう、という励ましを聖パウロはわたしたちに向けて語っています。

 

今朝のヨハネ福音書に登場する洗礼者ヨハネの言葉もわたしたちに気づきを与えてくれます。洗礼者ヨハネは、「光」について証をする、あなた方の知らない人があなた方の中に立っている、わたしの後から来られる方、など、謎めいたことを言っておりますが、ここに示されている人は言うまでもなくイエスさまのことであり、洗礼者ヨハネはこのイエスさまがわたしたちの生きる世界に来てくれること、これこそが良き知らせ、喜びだ、と宣言しているのです。

 

わたしたちの世界に暗闇―苦しみ、悲しみ、悩み、失敗などーが絶えずあろうとも、神さまのもとからその独り子であるイエスさまが来る、そして、そこに光を注ぎ込み、行く道を照らしてくれる、だから、どんなに暗闇が襲ってこようとも、大丈夫なんだ、これが喜びだ、そう宣言しているのです。

 

自分の現状に一喜一憂しなくてもいい。上手く行っている他者をみて、羨ましがったり、妬んだり、怒ったりする必要はない。どんな状況に置かれようとも、神さまのひとり子であるイエスさまが、今、ここに来られる。ここにいてくれる。これこそが「喜び」なのだと。

 

何か目に見える良い結果、変化がなければ喜ぶことはできない。ただそこにいると言うのは喜びなのか? そう思われる方もいらっしゃるかもしれない。

 

しかし、神の子であるイエスさまが共にいてくれることほど大きな喜びはない!そう、聖パウロや洗礼者ヨハネは伝えているのです。この想いにわたしたちの心が一致した時、大きな喜びのうちにイエスさまのご降誕を心から喜ぶことができるのです。