降臨節第一主日 イザヤ63:19b-64:、1コリ1:1-9、マルコ13:33-37
降臨節に入りました。今年もあと約1ヶ月で終わりですが、教会の暦では新年を迎えました。今年は年の始め、2月くらいからコロナ感染症拡大という未曾有の出来事に直面し、その影響は世界中に及び、そして、今もなお、解決の糸口が全く見えない状態にあります。新薬の開発、処方が適用されるまではしばらく待たねばならない状況にあります。世は混乱と不安に覆われています。先行きが見えない状況に多くの人々が不安を抱えています。コロナ以外のことにおいても、様々な暗い出来事がある。そのような状況の只中にわたしたちの教会、わたしたちがいます。先行きは暗い。しかし、そのような中でわたしたちは希望のうちに生きていくようにと背中を押されております。
今朝の福音書の背景には、イエスさまがこの地上から天に挙げられた以降の状況があります。地上で行き、パレスチナの地を巡り歩いたイエスさまはもう、この地上にはいない。復活され、天に昇られた!そう宣言する弟子たちによって建てられた教会、共同体、特にマルコが生きた時代における宣教、教会生活と言うものが背景にあります。
福音書の中にある<旅に出る人>とはイエスさまであり、仕事を割り当てられて責任を持って応答していく<しもべ>とはイエスさまにつながって生きる弟子たち、キリスト者であります。イエスさまは目に見える形で、昔、地上を巡り歩いていた形ではそこにいない。でも、目には見えないけど、わたしたちとつながっておられるのであり、そして、いつの日か、顔と顔を合わせて出会う日が来る、その時まで<目を覚ましておく>という励ましがここにあります。
「目を覚ましていなさい」とイエスさまが仰せになる。
「目を覚ましている」とはどのようなことなのか?
今朝のイザヤ書には「あなたは迎えてくださいます。喜んで正義を行う者を。あなたの道を進みながらあなたを思い起こす人々を」という言葉があります。
<目を覚ましている>とは単に起きて生活しているのではなく、「あなたの道」、即ち、「神さまが示す道」、「神さまといっしょに歩んでいく道」というものが示されています。
預言者イザヤの書が書かれた後、イエスさまがこの世界に来られました。神さまのもとからわたしたちのところへ来られました。それはわたしたち人間に対して、その神さまが示す道、神さまといっしょに歩んでいく道とは、どのような道なのかをイエスさまを通して、はっきりと見せるためです。
今朝のイザヤ書には「正義を行う者」とありますが、この正義とは神さまの正義です。公平という意味も含まれているものですが、一人ひとりを大切に想い、尊重し、守り、愛し、活力を与える神さまの働き、支えを意味します。
イエスさまはそのことをこの地上にてはっきりと示してくださいました。出会う人たち、ことに、悩み、悲しみ、苦しんでいる人に目を向け、寄り添われました。自分には生きる価値がない、そう落ち込んでいる人に、あなたは価値ある存在だ、と励まされました。希望などないと思っている人に、希望を与えられました。
そのイエスさまはもう目に見える形ではわたしたちの前にはおられないのですが、そのイエスさまの生きた道、言葉は、わたしたちの手の中に、目の中にある聖書の言葉にしっかりと書き記されています。
これを通して、これに触れながら、わたしたちは今も、これからも歩んでいくのです。
今日から降臨節に入ります。降臨節は慎んで、自分を顧み、心を整える期間です。これまで以上に聖書に触れ、目を向ける期間として過ごしていきましょう。紫はそれを示します。「紫」のキャンドル入れに目を向けつつ、意識しながら。
教会暦には「業」がある。そう聞いたことがあります。動きがある、運動といいますか、自分の心を見直し、整え、大きな祝いの日に向かっていく、といくための備えとして、今日からの期間がよりよいものとされていけますように、心を込めて礼拝を続けて参りましょう