降臨節前主日を迎えました。来週から新しい暦に入ります。アドヴェントを迎えます。今日のこの主日、海外の聖公会では「王なるキリストの日」という名称を付けています。この世界の王にイエスさまが即位されている、ということを想い起こす日です。
しかし、王と言ってもこの世的な王のイメージではありません。今朝のマタイ福音書には「人の子」と呼ばれる方が栄光の座に着く、と語られた後、すべての国の民がその前に集められ、「羊飼い」が羊と山羊を分けるように、より分け、羊を右に、山羊を左に置く、そして「王」は右側の人々、左側の人々にそれぞれ言葉をかける、そのような場面があります。
「人の子」、「羊飼い」、「王」などいろんな名称で呼ばれていますが、羊飼いのように羊、山羊をより分けるという言葉の背景には今朝の旧約聖書朗読のエゼキエル書34章の言葉があります。
羊と山羊の区別には諸説あります。双方、日中は一緒にいるが、夜になると山羊は寒さに弱いので暖かい場を確保する必要があったとか、黒色、茶色の山羊と白い山羊という違い、羊の尾が上に、山羊の尾は下に向いているとか、山羊は草以外のものを食べず、草ばかり食べるとか、いずれにしても、羊の方が山羊よりも好意的に描かれています。右側は左側よりも良い位置と考えられ、羊は右側だと。山羊のお乳の方がミルクやチーズにすると美味しいという評価がありますが・・・山羊さん、少し可哀想。
しかし、ここは喩えのようなものなので、実際の羊、山羊の違いはどうか?ということはあまり目を向ける必要はなく、「羊飼い」であり「王」である方の言葉に目を向けたいと思います。
それは「小さい者」に対して手を差し伸べていたかどうか?という点に「羊飼い」の目が注がれているということ、そして、「小さい者」に手を差し伸べる、支える、仕えるということは「羊飼い」であり、「王」である方に対してすることである、と。
今朝の福音書の中にある「人の子」、「羊飼い」、「王」と呼ばれている方は、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、イエス・キリストご自身をさしています。
お話のはじめに「王なるキリストの日」という言葉を出しましたが、今、すでに、王であるキリストがわたしたちの生きている世界を治めておられる、という宣言をこの日に行います。この世界では多くの指導者、王と呼ばれる人々がそれぞれの国を治めているのですが、その人々の上に、すべての人間の上に、復活され、天に昇られたイエスさまがおられ、この世界に目を注いでられる、という信頼のうちに「王なるキリストの日」を祝います。
だけども、「すでに」王なるキリストであるイエスさまはこの世界を治めておられるけども、「まだ」、その完全なる世界は実現していない、完成へと向かう途上にある、そのような途上にわたしたちは生きている、その完成を願いつつ、待ち望みつつ、生きる、そのような理解がキリスト教にあります。
目には見えないけどもイエスさまがこの世界に生きておられ、目を注ぎ、関わり続けてくれている。だけども、この世界は完全ではなく、人間同士のいさかい、争いがある。互いに傷つけあっている。苦しんでいる人々がまだまだたくさんおられる。わたしたちの身近なところ家族、兄弟姉妹、友人の中に、悲しんでいる、悩んでいる、苦しんでいる人がいると思う。身近な存在であることによって気づかずに見過ごしてしまうことがあります。
教会、キリスト教とは、この世界に仕える、という大きなビジョンを掲げるところがありますが、自分の身近なところで癒やしや喜び、安心が与えられなければ、分け合うことができなければ、イエスさまが望まれる世界は完成しないと思います。身近なところの方が難しいことがたくさんあります。
しかし、 お互いがイエスさまの家族であり、お互いがその存在を尊いものとして認め、支え合っていくことを通して、イエスさまが望んでおられる世界の完成に近づいていく、そこへと招かれます。
なかなか難しいこともたくさんある。分かり合えないこと、自分の好意、思いが伝わらないこともたくさんある。いさかい、争いになってしまうようなこともある。だけども、その一人もイエスさまの家族である、そうイエスさまは仰せになる。
身近なところでイエスさまが望んでおられる世界を前進させていきましょう。少しの気配り、優しさをもって、小さなことでもいいので、支えていくことを通して、大切に想うことを通して。