聖霊降臨後第23主日A年

 

「分け合うこと」、「助け合う、支え合うこと」、幼稚園でのお話や自分の子供たちにこのようなお話をします。「まあ、まあそんなに急がなくてもいいよ、大丈夫」と待ってあげることの大切さも伝えています。

 

しかし、今朝のマタイによる福音書では、10人のおとめたちが登場しますが、ともし火を灯す油が無くなってしまい、余分な油を準備していなくてともし火が消えそうな5人のおとめたちがいて、きちんと余分な油を準備している5人のおとめたちに分けて欲しいと願うと、「分けてあげるほどない、お店に行って、自分で買って」と言う。

 

少し複雑な心境になります。「困っていたら分けてあげればいいのに」と。さらに油を買いに行っている間に花婿が来て、少し待ってあげたらいいのに余分に油を持っていた5人のおとめたちはさっさと出発してしまい、置いていかれた5人のおとめたちは婚宴の席に入れないという状況に。

 

分け合えるものと、分け合えないもの、待ってあげられるものと待ってあげられないものがある、ということでしょうか。

 

天の国とは一人ひとりが神さまに招かれ、神さまと共にある、という実感に満たされる空間です。それはわたしたちが生きている、今、この人生の只中にも、その天の国の空間、喜びがある、それがマタイによる福音書が宣言していることです。

 

今朝の福音書にある花婿、そして、花婿との婚宴の席を待ち望むおとめという物語は、神さまとの宴、繋がりを祝う空間、さらにこれから迎えるアドヴェントの期節に関連するところですが、イエスさまの到来、再開を待ち望む教会、そこにいるキリスト者の姿、人生を反映しております。

 

わたしたちは今も目には見えないけどもイエスさまを通して神さまとのつながりを与えられている。その実感、信頼というのを絶えず持ち続けることの励ましがメッセージの一つです。日々の平凡なところの只中に天の国がチラリと見え隠れしている。最終的には大きな喜びに至る時がある、という希望の時に向かって生きる、という精神がキリスト教の信仰の中心にあります。「希望」です。希望を持って生きること。希望を持っていつも心を整えておくということです。

 

神さまがいる、イエスさまが共にいて支えてくれる、このような実感、信頼は日常の様々な事柄の中にある困難、苦しみ、悲しみ、悩みがある時には、フッと消え去ってしまうことだってあります。「もう信仰生活、やめようか」、「自分には強い信仰などない」とか、「教会に行くのが辛い」とか、「祈ることが出来ない」とか。どんなに周りの人たちが励ましたり、支えたりしても、自分の中にある悶々とした思い、不安、疑い、悲しみ、悩みはそう簡単には払拭できません。

 

自分自身の中にその信頼がなければ、立ち上がることができません。これだけは他者から借りることはできないのです。神さまへの信頼に満ちた他者の言葉、生き方に触れることができても、自分の中に、「自分の神さまへの信頼」、神さまが共にいるという信頼が芽生えてこなければ、今日の福音書の物語から言えば、信頼という灯火が灯されなければ、希望のうちに、待ちつつ、生きていくことができない、そのようなメッセージがここにあります。

 

祭壇にある蝋燭の灯火は、「光」や「火」というシンボルとして見ることができますが、希望、信頼、暖かい気持ち、暗闇を打ち破る力という意味が込められていると言えます。教会は絶えずこの灯火を灯してきました。照明の代わりとして用いられることもあったでしょうが、それを超えたもの、わたしたちに必要なものが反映されているのだと思います。

 

信頼は借りることはできない、と言いましたが、灯火から出る光のエネルギーを感じ、触れて、自分の中に吸収していくことはできるように思います。

 

自分の中にある信頼が消えかかりそうな時、不安な時、悲しい時、悩んでいる時、疑いのある時、この祭壇の灯火を見つめてください。

 

この祭壇の灯火を通して、絶えずわたしたちひとり一人のうちに「光」を「灯火」を灯そうとされているイエスさまを思い起こしてください。

 

信頼に満ち溢れている人は、どんどん、もっともっとその灯火を照らしてください。

 

もうすぐアドヴェントです。自分のうちに神さまへの信頼という灯火を照らし続けることができますように、希望のうちに待ち望みましょう。