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諸聖徒日

諸聖徒日 マタイ5:1〜12

 

諸聖徒日を迎えました。これまでにキリストの足跡に従って歩んだ聖なる人たちのことを想い起こすと同時に、聖なる人たちと共に、歩み、支えられた復活のキリスト、そして、天の父なる神さまの働きに感謝します。

 

11月1日が諸聖徒日、2日が諸魂日でありますが、今日、この日に皆さんと共にすべての天の会衆のことを覚えて祈ります。キリスト教の歴史においてはイエスさまの最初の弟子たちを含め「聖人」と呼ばれる人物がおられます。殉教者、教会博士、この地上で大きな働きをした人物の名前が挙げられますが、マザー・テレサはすべての人が聖人になるべき、と言う言葉を遺したと言われております。その言葉の意味は、何か大きな功績を残すことが重要ではなくて、誠実に、心から、イエスさまに、イエスさまを通して神さまとつながって生きる人、それが聖人であり、それは一人一人に与えられた生き方である、ということです。

 

今日はこの明石聖マリア・マグダレン教会において天に召された方々のことを覚えて祈ります。マザー・テレサの言葉に加えたいもうひとつの大切なことは、その天の会衆とのつながりが常にあるということ、天の会衆は天において今も生きておられ、わたしたちと共に神さまに感謝、賛美を献げているということです。

 

その姿は今朝のヨハネ黙示録の箇所に映し出されています。天上での礼拝のビジョンですが、今、この地上で礼拝を献げているこの時、天上においても神さまへの礼拝が共に献げられているのです。天と地はひとつです。今はどこか遠くにあるもの、はっきりと見えないもののように感じるかもしれないのですが、目には見えない一枚のカーテンをめくれば、そこに天の空間がある。天と地は重なり合い、つながりがここにあるのです。

 

天に召されたわたしたちの信仰の先達者たちは神さまへの信頼を持って生き抜かれました。時に困難に接し、神さまへの疑いの心、神さまの不在の体験をした方もいるかもしれない。しかし、その思いは天に召された時、天の神さまに出会う時、一瞬にして消え去っていることでしょう。<神さまと共にある>という実感のうちに天で憩い、安らいでいるのです。

 

今朝のマタイによる福音書は有名なイエスさまの山上の説教のところですが、<幸いである>という重要な宣言がイエスさまの口から発せられました。<幸い>、幸せという言葉。皆さまはどのようにこの言葉を受け止められますか? <幸せな人生>とはどのような人生でしょうか? お金があること、秀でた才能を頂いていること、周りから称賛され、尊敬される地位にあること、そのようなイメージでしょうか。 一人ひとりのうちに<幸い>というイメージがあると思います。

 

イエスさまが<幸いである>と宣言された時、そこにいた人たちの多くは様々な問題を抱えていたと思われます。悲しんでいる人、苦しんでいる人、悩んでいる人などわたしたち人間が抱く様々な困難、苦しみ、悲しみを抱いていたのです。そのような人たちを前にして、イエスさまは<幸いである>と宣言される。力強く、です。

 

イエスさまの語る<幸い>という言葉は、この世的な幸せというもの、健康や長寿、富、というものを超えて、<神さまと共にある>という神さまとのつながりが込められています。困難な状況の只中に、そこに神さまとのつながりがある、神さまがそこにおられるという宣言です。すぐにそれぞれの人たちが抱く問題、現実は解消されていなかったかもしれない。

 

しかし、イエスさまの<幸いである>という宣言は、そこにいた人たちの心を揺り動かしたのです。そのイエスさまの<幸いなる>という言葉は、イエスさま自身の生き方によって示されていたからです。イエスさまの生き方、言葉は、常に、<神さまと共にある>という信頼のうちに示されました。先立って、イエスさまはこの<幸いなる>生き方を生き抜き、苦しみの先に、新しいいのち、光があることを示してくれたのです。