聖霊降臨後第20主日 マタイ22:15〜21
今日は敬老感謝の祈りを捧げます。人生100年とも言われる時代でありますけど、人生のいろんな山や谷を乗り越えて来られて、今があります。神さまにこれまでの人生の歩みを支えてくださったことへの感謝、そして、これからも元気で過ごすことができますように心を込めてお祈りを捧げたいと思います。
今日は敬老感謝礼拝後の演奏会のために神戸国際大学付属高等学校吹奏楽部の皆さまが来てくれました。心から感謝します。長い人生の経験を積み重ねて来られてきた方々とこれからの将来を担う若い世代の方々がともに集い、交わりの機会が与えられたことに感謝します。
以前もお話しましたが、「教会」とは建物のことではなく、「人の集まり」、ことに神さまに呼ばれた人の集まりです。
洗礼を受けている人、洗礼を受けることを考えておられる人、まだそこまで考えていない人、初めて教会に来た人、すべて、みんな、神さまから呼ばれて今日、今、ここに集まれています。「人の集まり」のない教会は教会とは言えない。
人は「教会の宝」です。人がいてこそ教会が成りなっていきます。人がいて初めて喜び、悲しみ、いろんなことを分かち合うことができます。人がいて初めて「交わり」という機会を持つことができます。
今朝の福音書はファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の指導者、その中にいる律法の専門家とイエスさまとの対話の場面が読まれました。実際には対話というよりは、ファリサイ派側には悪意というか、敵意というものがあって、イエスさまに挑戦的な態度で向かってきています。冒頭、「イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて」とある。サドカイ派はファリサイ派とは別の党派ですが、同じユダヤ教の指導的立場にある人たち。ならば我々、ファリサイ派がこの男を論破してやろう、そういう意気込みをもっていたことでしょう。
イエスさまへの問いは「律法の中でどれが一番重要か?」というもの。当時の律法とは細部にわたりいろんな規定があって、その規定の数は何百といわれるくらいはあったようです。律法と聞けば旧約聖書に出てくる「十戒」が有名ですが、それも含めて、日常の生活の中での細かい規定がたくさんあった。そんな中で、どれが一番重要か?という問い。少し意地悪な質問のように聞こえます。「どう答えるだろうか?」と。専門家、つまり学者です。律法に関しては誰よりも知っている、学んでいる、という意識、自信を持っていたことでしょう。どんな風にイエスさまに聞いてきたのか? 意地悪な顔してニヤニヤした感じだったのか、、、
ファリサイ派の問いに対して、イエスさまは応答します。
「主を愛すること」、「隣人を愛すること」。律法全体と預言者はこの2つに基づいていると。
律法全体と預言者、すなわち、ユダヤ教徒が大切にしていた聖なる書物全体を指します。わたしたちが今、旧約聖書と読んでいるところのものです。いろんな書物があり、そこにはたくさんの言葉、教え、戒めがあります。
しかし、そのたくさんあるものはすべて、「愛する」ということに基づいているのだ、そう言い返すのです。
イエスさまの応答は、律法学者の思惑をはるかに超えていきます。バッサリと切り捨てます。
細かいことを言って、困らせたいのだろうが、そんなことは無意味なことだ、と言わんばかりに。
どんなに細かく、細部に「至るまで律法のことを理解していようとも、細部に至るまで実践しようとも、「愛する」という思いがそこになければ意味がないと。
余談になりますが、今、大学院で勉強する機会を頂いています。細かい話もいっぱいあります。自分が関わっている司牧と一体どんな関係があるのか、と思ってしまう内容のものもあります。でも、本当に大切なものは何か。何のために学んでいるのか。その土台、根っこのところを見失ってしまうならば「趣味」で終わる、そう助言されています。
わたしはそれを自分なりに思い巡らしますと、それは神さまのいのち、神さまの愛をいつも思いながら学んでいくこと、神さまのうちで学ぶこと、神さまへの愛、他者への愛をもって真理を探究すること、それが学びの土台に必要なのだ、そう思います。その学びを通して、愛することを知り、学び、それを分かち合っていく必要があると感じています。
イエスさまは律法を学ぶ律法の専門家の学びを批判したのではありません。ただ、その律法の本質は何か、きちんと理解しているのか? 大切なことを見失っていないか? と。
本質を問うこと。大切なことは何か?といつも思い巡らすこと。大事だと思います。それがなければいろんなものに覆われて埋没していくだけです。勉強、仕事、その他いろんな日常にあることでいっぱいいっぱいになって、苦しくなったり、辛くなったり、疲れたりするとき、少し立ち止まって考えることが大切です。何のためにやっているのか? 今の自分にとって一番大切なものは何かと。
わたしたちが生き、学び、生活しているのは自分だけの為ではないと思います。他者とのつながりを豊かなものとする、言い換えれば、「愛し、愛されていく」ことを育んでいくためにわたしたちはそれぞれの場に置かれ、いろんな役割を担い、生かされているのだと思います。
イエスさまの言動は聖書の中にたくさん記されておりますが、イエスさまの言動の土台にあるものは、わたしたち人間は神に愛されているものであり、それをしっかりと受け止め、それを分け合っていくこと、にあると思います。
今朝のイエスさまの言葉は「愛しなさい」というものでありますが、ここには、これに先立って「愛してくれる神さまの愛」があるのです。
世の中のルール、規定はある意味、人間を縛る、締め付けていくものです。しかし、神さまが与えた律法は、先立って愛してくれている神さまと「つながっていく」、それも自由、自発的に、喜びのうちに、「ともにいる」ための誓約なのです。