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聖霊降臨後第20主日

聖霊降臨後第20主日 マタイ22:15〜21

 

ガリラヤという小さな村から現れたイエスという人の魅力、人格、品性に惹かれる人たちがどんどんと増えてきたのでしょう。

 

「イエスという男を支持する民によって何かしら大きな動き、うねりが生じるかもしれない・・・。あの男をこのままにしておくと我々の立場が危うくなるかもしれない・・・。」

 

そのような危機感によって、立場の異なる2つのグループーファリサイ派とヘロデ派―が結託をし、「イエスさまの言葉じりをとらえ、罠にかけようと」してきます。

 

「皇帝に税金を納めるのは律法にかなっているかどうか?」

 

イエスさまに問われた問いについては少し説明が必要です。

 

イエスさまが生きていた時代、ローマ帝国が絶大な力をもってパレスチナに住むユダヤ人を支配していました。ローマ帝国はユダヤ人の宗教の自由は認めていましたが、支配するところから税を徴収することで大きな利益を得ていました。

 

現代の私たちの感覚では自分たちの生活しているところを治め、管理している国家に税金を納めるのは普通のことだと思いますが、ユダヤ人のファリサイ派にとっては、お金の問題だけでなく、宗教的な問題、信念に関わる問題でありました。

 

本来、自分たちを支配するのは皇帝、すなわち人間の王ではない。神さまこそが自分たちの支配者であり、王であるということ。これが、彼らが抱いていた信念でありました。そうであれば、ローマ皇帝を自分たちの支配者として認め、自分たちが得たお金から税金を納めるというのは自分たちの信念、信仰に反する行為だ、そのような思いを抱いていたのです。

 

ヘロデ派というグループはローマ帝国によってたてられたヘロデ王家を支持する立場を保持しており、ローマ皇帝に税金を納めるのは当然であると思っていたことでしょう。

 

イエスさまの敵対者たちの質問、「皇帝に税金を納めるのは律法にかなっているかどうか?」との問いはよく考えられたものです。イエスさまが「かなっている」と言えば、ファリサイ派からは、ローマ皇帝への服従を認めることであり、唯一の神さまへの忠実さを捨てるという信念、信仰を破棄することであると責め立てることができ、又、「かなっていない」と言えば、皇帝支持者のヘロデ派からは、それはローマ皇帝への忠誠を拒否することであり、反逆者として訴えることができる、というものでした。

 

 このような難問とも思える質問にイエスさまは冷静に対処します。

 

イエスさまは「税金を納める金を見せてくれ」と言います。彼らは彼に一枚の硬貨を差し出し、その硬貨を見ながら、尋ねます。「これは誰の姿が描かれていて、何が書かれてあるのか?」と。敵対者は「皇帝のものです」と答えます。そして、イエスさまは言います。"皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と。イエスさまの応答はリアリスト的な応答です。納税することは偶像崇拝の行為ではなく、国家の一市民として、権利と義務を持って治めるものであると。

 

しかし、この応答にはあるメッセージが込められていました。

 

イエスさまがお生まれになる前、そしてイエスさまが生まれた時代においても、ローマ帝国への納税を含め、ローマ帝国支配を転覆させるためのユダヤ人の反乱、闘争が繰り返されていました。

「選ばれた神の民」という立場を回復させ、再びこの世界にそのような国家を建てるために必要な運動なのだ!と。そのためには剣を持つこともいとわないと。

 

しかし、イエスさまの応答はそれまでの考え方を根本から覆すものでした。剣を持つ必要はない。力、暴力による抵抗、反乱は解決へと向かうことはないと。彼らの先祖たちは時に国家のために剣を持って闘争したかもしれないが、それによっては完全なる解決にはならないと。「皇帝のものは皇帝に・・・返しなさい」、即ち、納税できるのであればすればいいのだと。

 

 重要なのはそれに続く言葉、「神のものは神に返しなさい」です。イエスさまは敵対者たちの質問への応答を通して、彼らに欠けているもの、彼らが見失っていた大切なもの、視点を気づかせようとしています。

 

わたしたち人間が家族、学校、職場、国家など、様々な地上にあるところに属して生活しております。そこで様々なことを学び、成長し、生活の糧を得る、または、自分を捧げていくという生活を営んでおります。だけどもその背景にあるもの、目には見えないけども、もっと大切なものに目を注ぐようにと招きます。

 

すなわち、わたしたちは神さまに属している、ということです。聖書では生けるものすべてが神さまに属している、言い換えれば、神さまの家族としていのちを受けている、ということです。ある家庭、ある組織、ある国家に生まれ、属していながらも、人間はみんな神さまのうちにある、ということです。

 

互いに考え方、慣習、伝統の違いがあり、争い、不和があります。すぐにわかりあえないこともあります。だけども、その多種多様な世界の土台に神さまからのいのちがあるということへと目を向かわせます。そして、神さまからいのちを受けた人として互いにいたわり合い、支え合って生きるようにと招いておられるのです。

 

姑息な質問によってイエスさまを貶めようと、偏狭な心で近寄ってきた敵対者に対して、イエスさまはそんな狭く、歪んだ心ではなく、神さまに、他者に開かれた心で生きるようにと促します。

 

わたしたちが置かれている身近な空間には、剣による暴力、支配はないのかもしれないのですが、他人に対する妬み、恨みからくる言葉の暴力、圧力などは絶え間なくあるでしょう。

 

そうした中にあって、わたしたちが置かれている現実において、よりよい空間、一人ひとりの権利、いのちが保証されていること、それを映し出す器となって、平和な空間をもたらす人となるようにと招かれているのです。