マタイ22:1-14
「結婚式」というのは喜びの空間だけでなく、普段なかなか出会うことができない人たちとの出会いの空間でもあるように思います。自分の結婚式にも昔の友人たち、恩師などがたくさん来てくれましたが、それぞれが久しぶりの再会を喜んでいました。また、結婚式という空間は、再会だけでなく、新しい出会いもあり、人生における豊かな交わりの場であるように思います。
さて、今朝の福音書は「婚宴」の場面が描かれておりますが、聖書における「婚宴」とは、わたしたちの日常と同じく「喜び」の空間を意味します。婚宴の主人公は花嫁と花婿ですが、イエスさまの時代では花婿が花嫁の家に迎えに行き、そして婚宴の場に向かっていくという慣習がありました。聖書ではその場面が適用されて、花婿が神さまもしくは復活のキリスト、そして、花嫁を教会もしくはキリスト者と重ね合わせて、来るべき日の再会、完成の日の宴に与る時間、空間を説明する際に語られているところがあります。婚宴の時間、空間は、神さまと人とが結ばれる喜びの空間、祝いの空間として描かれています。
今朝の福音書では、「天の国は、ある王さまが王子のために婚宴を催したのに似ている」と語られています。王さまの王子、すなわち、神さまの御子イエスさまと、イエスさまと結ばれる人たちとの喜び、祝いの空間、時間が暗示されています。しかし、この喩え話では、その喜び、祝いの空間への王さまの招待を無視したり、招待を呼びかける家来たちを傷つけてしまう人間の姿が描かれています。
この物語の背景には、旧約聖書に記されているイスラエルの歴史及び、時が満ちてこの世界に来られたイエスさまが生きた時代及びその後の時代の状況があります。神さまの言葉を預かり、神さまの方へと向かって生きることを宣言する預言者たち、イエスさまも含め、神さまのことを伝える人たちへの反抗、迫害というものがあります。
物語は続きます。王さま(神さま)の招きは絶えず続けられます。すべての人々にその招きが与えられます。それまでは王家の関係者までという限定があったのでしょうか。王さまは呼びかけた客がふさわしくなかった、そう仰せになりました。そして、善人、悪人、いろんな人々が招かれ、婚宴が開催されました。しかし、王さまの目に<婚礼の礼服>を着ていない人の姿が止まりますが、王さまは<礼服>を着ていない人を咎めます。
今朝の福音書は、王さまの招きよりも自分のことを優先させ、その招きを斥けてしまった人たちの姿、それに対して王さまは、その後、町の大通りまで家来を遣わして、婚宴の席へと全ての人を招かれたこと、そして、招きに応えて婚宴に来た人の中に<礼服>を着ていなかった人を見つけ咎められた、という長いストーリーが展開されています。
最終的に王さまの招きに応えて婚宴に来るだけでなく、そこで<礼服を着ている>ということが重要であるということが喚起されているストーリーです。複雑な物語であるように感じます。
この物語で王さまはあらゆるすべての人を招いたとあります。礼服という正装を整えるようなお金のない人たちもいただろうと想像します。この王さまの招く婚宴が天の国での宴だとするならば、貧しく、正装の整えることができない人が排斥されるようなことは決してないだろうし、あってはならないことだと思います。
そうであれば、<礼服>とはなんでしょう。
聖書の中に、長年、病を患っていた女性がイエスさまの衣の裾に触れる箇所(マタイ9:20)や、衣の房を長くする律法学者たちやファリサイ派たちの姿(マタイ23:5)などがありますが、ここでは、単なる衣服を指しているのではなく、その人の人格、品格というものを示しているように思います。そこには生き方、振る舞いというものも含まれているでしょう。➖神さまの憐みと愛に満ちたイエスさまの人格、品格。本当の自分以上に背伸びして、大きく見せようとするファリサイ派、律法学者たちの人格、品格➖ ローマの信徒の手紙では、主イエス・キリストを着なさい(13:14)という聖パウロの励ましの言葉がありますが、イエスさまと繋がった生き方、イエスさまの品格、人格に与るということが示されているように思います。
礼服を着る、という「着る」、「身に纏う」ということに焦点があてられているように思います。
今朝の箇所で言えば、婚宴に招かれた人として、その婚宴の喜びに与る人としての生き方について言及しているように思います。外から見た姿ではなくて、内側にある心、生き様というところに目が注がれているように思います。
キリスト教においては「行い」ということについてはいろんな議論があるところです。ただイエスさまに、神さまに身を任せて生きていればいいのであって、「正しい行為」などは問題ではないとか、人間側の行いを強調するのはキリスト教の教えに反するものだ、とか色々あると思います。
しかし、ここでは婚宴に招かれた喜び、感謝、神さまと共にあるという喜びがその人の生き方を通して反映されているかどうかは問われていると思います。喜び、感謝を映し出す生き方とは、演技や見せかけではなく、その人の内側から自然と溢れ出るものであると思うからです。
どれだけ良い働き、貢献をしたか、結果を残したかが天の国に入る条件ではなく、喜びと感謝に満たされた生き方、その心が、天の国のうちに真に生きる姿だ、ということを示しているのだと思います。
ヨハネ黙示録19章には
「小羊の婚礼の日が来て、花嫁は支度を整え、輝く清い上質の亜麻布を身にまとった。この上質の亜麻布とは聖なる者たちの正しい行いである」と、あります。
ここでの「正しい行い」も、人間側の厳格な修行によって徳を積む、というよりも、全身全霊でもって、神さまを賛美する、礼拝する、という感謝・賛美の行為が示されています。
わたしたちは、このストーリーを通して、いま、置かれているところで、日々の生活の中で、神さまに招かれ、愛されていることを心から受け取り、喜びと感謝のうちに生きることへの招きを受けています。
平凡な日々の中に、慌ただしい日々の中にある、小さな、小さな喜び、感謝を見出し、それを大切に育んでいき、それを他者と分かち合っていくようにとの招きです。
新しい1週間が始まりました。喜びの礼服を身に纏って新しい日々を歩んでいけますように。