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聖霊降臨後第17主日A年

マタイ21:2833

 

率直に嫌なことは嫌と言って、後になって自分をじっくり見つめ直して、方向転換して、「新しく」生きる、という生き方に憧れます。

 

今朝の福音書の物語に登場する「兄」の振る舞いはこれ通じます。

 

この兄に対して、弟は、父から命じられたことに対して、素直に「はい」と応答してお父さんを喜ばせたように見えますが、実際には父から委ねられたことを果たすことができませんでした。

 

両者にある根本的な違いは、「考え直す」ということが出来るかどうか、というところにあります。

 

「考え直す」とは、生き方、振る舞い、言葉、という行動全てにかかわってくるものです。

 

今朝の福音書に登場する「兄」は、徴税人や娼婦たちの変容を暗示し、「弟」は、当時のユダヤ教の指導者たち、学者たちを暗示しています。

 

双方共に、今の自分の生き方からの「回心」、「変容」の機会を与えられました。

 

これまでの自分の考え方、価値観を脇において、新しく生きるということには勇気と決断が求められます。

 

これまでの「つながり」から離れ、新しいところに向かうのは簡単なことではありません。

 

物語の中で「兄」が最初に「嫌です」といったのも分かります。率直な応答です。「弟」はどんな気持ちで「はい」と言ったのかははっきり分かりません。しかし、最終的にその機会を回心、変容の機会としてとらえることができませんでした。

 

今朝の物語はイエスさまを通して神さまへと応答していく、信頼していく、という「信仰」というテーマも含まれていると思います。

 

聖書における「信仰」という言葉には、「行き先の見えないところに向かって一歩踏み出す」という心が含まれています。

 

「兄」は、初めは嫌ですと言ってその機会を斥け、これまで通りの生き方を貫こうとしましたが、考え直し、これまでと全く違う、行き先の見えない、でも、新しい方向へ向かって一歩踏み出しました。

 

実に信仰生活とは、神さまからいろんな機会を与えられる中で、絶えず、考え直していくこと、新しい一歩を踏み出していく、という生活なのだと思います。

 

ずーっと安定した上がり下がりのない堅固な信仰生活を望んでしまうかもしれないのですが、わたしたちが置かれている信仰生活は、もっと動的なものであり、絶えず冒険する、探すというところにあるのだと思います。

 

新しい1週間が始まります。

 

新しい冒険へと踏み出してまいりましょう。