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聖霊降臨後第16主日A年

 

グローバルな時代に入り、視野を広げたり、大きなビジョンに向かって生きる途が開かれているように思いますが、一方で、あらゆるところにおいて競争が激化し、格差社会が広がり続けています。

 

結果を残せば良い評価が与えられ、それに見合う報酬を得るという考えがスタンダードになっています。それに見合う報酬が与えることができないのであれば、優秀な人材はそれに見合う報酬を与えるところを探し、報酬を与えてくれるところへと向かいます。

 

やったらやった分だけ報酬を得る。結果さえ残せばいい。結果を残せない者はその場を去るだけだ。シビアな世界です。

 

今朝の福音書では朝から働いた人も夕方から働いた人も一デナリオンの報酬であった、、、朝から働いた人は自分の後から働いた人たちが報酬を貰っているのを見ながら、自分はもっと報酬を得ることができると期待してのにそうではなかったので不平を言います。

 

それに対して主人は朝から働いていた人に最初に一デナリオンという約束をしたでしょ?と言う。

 

わたしたち現代人のものさしで見ると、しっくりといかないように感じる物語です。これだけ頑張った、これだけやってきた、だからそれに見合う報酬、評価を貰うべきだと考えます。

 

しかし、今朝の福音書のポイントは“天の国”についてを語ることの中で、このような喩えが用いられているということです。

 

“天の国”、今年の主日の聖書日課で繰り返し登場する用語ですが、それは‘神さまの眼差しがあるところ、神さまと共にあるところ’を意味しますが、それはこのわたしたちが今、ここに、生きているところの只中にある、と宣言されているところです。

 

その神さまの眼差しがあるところ、神さまが治めておられるところでは、人間の側の思いがひっくり返されることがある、ということを示しておられます。

 

この人は、あの人は努力が足りない、結果を残していない、出来ていない、だから周りよりも劣っている、という人間の側の評価、物差しがあっても、神さまの眼差しはそうではない。神さまの御前では、人間の側のキャリア、地位、成果など、どんなに誇ろうとも特別なものとはならない。

 

納得いかない感じがしますか?

 

自分はこれだけ信仰歴があるとか、聖書の勉強をしている、理解しているとか、これだけ教会での働きに貢献してきた!と誇っても、神さまの眼差しにおいては、他の人と等しいものとして映っている。

 

「どうして?」「不公平だ!」と感じてしまうかもしれないですね、、

 

神さまの「気前のよさ」という言葉が出てきていますが、神さまの懐の深さ、偉大さ、憐みでもあります。

 

一人ひとりを大切にしたい、救いたい、一人ひとりが尊く、価値があること。

 

このような神さまの想いが映し出されている喩え話、それを示す物語であるのです。

 

わたしたち一人ひとり、違いがあります、

 

長〜く頑張れる人、努力できる力を持っている人もいれば、頑張れない、苦しくなる、疲れてしまう人もいます。

 

どちらが良いとか、優れているとか比べる必要はないのです。競う必要はないのです。

 

ひとりひとりに神さまは声をかけ、共につながって生きるようにと招いてくれています。

 

 自分に与えられたいのちを大切に、精一杯生き、豊かなものとなりますように。