聖霊降臨後第15主日A年

マタイ18:21-35

 

罪のゆるし

 

神戸教区では毎年夏に召命黙想会と呼ばれる黙想会があります。聖職志願を考えている人や神学生、その他聖職でも参加できる黙想会でしたが、今年はコロナ禍の影響により中止となりました。

 

わたしは毎年参加させて頂いておりましたが、数年前の黙想会の時、黙想指導してくださった司祭の言葉の中で、「恵み」とは「してもらったこと」だ、という言葉がずっと心の中に残っています。

 

「してもらったこと」、数え切れません。この世にいのちを受けて生まれ出てきてから、今に至るまで、育ててくれた両親、その他多くの人たちの支えがあって、今、ここに立っています。生まれてから今に至るまで、大小様々、数え切れないほどのいろんな「罪」をおかしてきたと思いますが、その都度、赦され、愛されて、今、ここに立っています。

 

数え切れないほどの「罪」と言いましたが、自分では気がつかないうちに他の人を傷つけてしまっていることもあると思います。それを含めるともっとたくさんの「罪」を重ねてきた、そう思います。

 

「罪」という日本語は刑罰の対象に相当するもの、あるいは警察のお世話になるというイメージが強いような気がします。

 

宗教においては「罪」という言葉がキリスト教含めたくさん登場してきますが、「罪」という言葉に対するリアリティというものがぼんやりしているように感じます。

 

聖書における「罪」とは他者を傷つけてしまうこと、神さまとのつながりを断ち切ることを意味します。「誤った方向に矢を射る」という意味もありますが、向くべき方向を誤っている、つまり、神さまの方を向いていない、神さまが望んでいることを行えていない、という意味が含まれています。これらは人間である以上、誰もがしてしまっていることだと思います。

 

今朝の福音書では「借金がある」という人たちが登場してきます。今朝の物語ではお金の負債は罪の負債を表わす比喩となっています。1万タラントンと百デナリオンの負債を抱えている二人の人が登場します。1万タラントンとは今日の日本円に換算しますと、何千億以上のようです。今日の世界の億万長者の上位者なら払えそうな気がしますが、イエスさまの時代の人々の感覚で言えば、一生働いても返済できない金額でしょう。到底、返すことはできない負債を抱えていたということを示しています。その負債者は主君からその負債を返せ、と迫られる。自分も妻も子供も、持ち物全部売って返済するようにと。しかし、負債を抱えていた家来はひれ伏し、返済を待って欲しいと懇願すると、主君は「憐れに思い」、家来を「赦し」、負債を帳消しにしてあげたのです。

 

ところが、この家来はそのあと外に出て、百デナリオン貸している仲間に会うと、捕まえて首を絞め、負債を返せ、と迫ったと。返済を待って欲しいと懇願する仲間を赦さず、返済が終わるまで牢に入れた、とあります。百デナリオンとは1日の日当が1デナリオンくらいであり、日当数ヶ月分くらいの負債額です。すぐに返せないかもしれないですが返済可能額です。

 

自分は到底払えない負債額を抱えていたものを帳消しにしてもらったのに、それを棚に上げて、仲間にはそれを赦さず、厳しい対応をする。後になって、主君から厳しく戒められることになります。

 

神さまのあわれみ

 

このストーリーは、弟子のペトロから罪の赦しについてイエスさまに問いかけた時に話された喩えです。喩えはシンプルで分かり易いものですが、他者を赦すこと、受け入れることの難しさについて考えさせられます。

 

今朝のシラ書では「他人のおちどには寛容であれ」という言葉があり、ローマの信徒への手紙では他者を裁き、侮る人々に対する聖パウロの言葉があります。これらの言葉もまたシンプルでありながらも、自分の胸にグッと入ってくる言葉です。

 

自分の日常の中でも、寛容ではない心、他者を裁き、侮るような心になってしまっている時があります。それは主として、自分の心に余裕のない時、慌しくてイライラ、カリカリしている時です。皆さんはどうでしょうか?

 

寛容であること、相手を受容すること、他者を裁き、侮ることから離れること。他者を赦すこと。

 

私自身、これからのことを思い巡らす時、心を静かにして、先ほど少し触れた「してもらったこと」を想い起こすようにしています。「してもらったこと」を思い起こしていく中で、同時に自分が「してしまったこと」も想い起こします。

 

「あの時、あんなことをしたのに、それに対してあの人は深い慈愛で包み込んでくれた」と。自分の誤り、過ちを棚に上げて、人には厳しく裁くのはみっともないことだ・・・など。

 

今朝のイエスさまの喩え話の中心にあるのは、主君のあわれみ、すなわち、神さまのあわれみです。

 

わたしたち人間は絶えず過ちを犯します。

 

先ほど触れた「罪」と言う言葉の中に含まれている、他者、神さまから目を背けてしまうこと、誤った方向に向かってしまうことはこれからもあります。だけども、それを包み込んでいく神さまのあわれみがある、と言うのが今朝のメッセージの中心です。

 

しかし、なんでもかんでも赦してくれるのだから好き勝手に振る舞っていい、と言うことではありません。

 

神さまのあわれみは、その人に新しい気づきと変化をもたらし、分かち合われ、広げられていくものです。

 

「してもらったこと」を想い起こす中で、その出来事を通して、その出来事の中に、神さまのあわれみを感じ取ることがあると思います。

 

神さまの哀れみは、過ちを犯し、その過ちを悔いる人が新しく歩み出すことができるようにと癒し、支えるものであり、その神さまのあわれみを他者へと分かち合う、与えていくようにと招くものであります。分かち合うことを行うことを通して、神さまのあわれみが自分の置かれているところから広がっていくのです。

 

ことに、祈り、礼拝の時間とはその神さまのあわれみに浸される空間です。祈り、神さまの御言葉に触れ、感謝を献げる時間を通して、神さまのあわれみを分かち合い、他者へと与えていくために、ここから新しい1週間へと送り出されていくのです。