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聖霊降臨後第14主日A年

マタイ18:15-20

 

複雑な人間の世界

 

今朝の福音書では忠告する、という言葉が出てきました。

辞書によれば真心をもって、相手の悪い所を指摘して直す、とあります。いろんなケースがあると思います。

 

忠告すること。わたしは苦手です。躊躇いを感じます。勇気が入ります。相手が怒ってしまったらどうしようとか、傷ついたりしないだろうか? 自分がそんなこと言えるほど完全か?と思ってしまうことが多々あります。でも、愛をもって忠告することは大切なことだ、そう言われたこともあります。

 

忠告されること。わたしは落ち込みがちになります。怒るという感情よりも、失敗してしまったとか、自分はダメだなあ、と引きずってしまいます。プライドが高い人間なのだろうと思います。

 

忠告することも忠告されることも、どちらも自分にとっては重く感じるものですが、今朝の福音書では必要な事柄として挙げられています。

 

今朝の福音書ではどのように忠告を聞くか、ではなく、忠告するということが記されています。一応のプロセスがあって、まずは、二人だけのところで忠告をしなさい、とあります。周りの人々がいるところで、あからさまに相手の悪い所を忠告するのではなく、二人だけのところでそのようにしなさい、と。その人がいないところで、陰でブツブツ言うよりは、面と向かって忠告せよ、ということであろう、との解釈もあるようですが、あんまりスッキリしません。

 

面と向かって言うことは大切なことかもしれないですが、ものの言い方、そして、何を伝えるかも大事であり、また、その人との関係性も問われると思うからです。その指摘は間違っていないにしても、関係性もないままに頭ごなしに厳しく戒めても、上手くいかないことがあるように思います。

 

また、忠告される側も、相手の指摘を素直に受け入れる器があるかどうかによります。確かに言われていることは正しいと感じても、素直にそれを認めることができない複雑な感情を人間は抱えております。「逆ギレ」とか「言い訳」をする人間の姿は自分も含めてあります。どうして素直に受け入れることができなかったのか、と後になって思い直すことがあります。そういったことは日々の生活の中、家族内で、夫婦との間で、友人との間でもあります。

 

忠告すること、今朝の福音書では淡々と記されていますが、それを素直に受け取ってもらえる、あるいは素直に忠告を受け入れると言うことは簡単ではないように感じます。

 

今の世の中でもあらゆる場面で、「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言う、忠告の声があります。全くその通りだ、と感じるものもあれば、そんな言い方はないんじゃないの?って思うものもありますが、素直にスッとその忠告が届くと言うことはないようで、あちこちで不和が生じています。わたしたちの人間世界はそれくらい複雑です。

 

心をひとつに

 

忠告をすると言うのは、忠告をする側が正しく、しっかりとした答えを持っていて、正しくない、悪い相手も戒め、誤りを認めさせ、更生させる、そんなイメージを抱きます。

 

このようなイメージだと、そんなにあなたは偉いのか、正しいのか、誤りはないのか、などと言うリアクションがありそうです。一方が上に立って、上から見下ろす感じで、となると、そこに反発、衝突が生まれます。

 

しかし、今朝のエゼキエル書には悪人についての言葉がありますが、その言葉を示された主は、最後に「立ち帰れ」と繰り返して語りかけておられます。

 

どこに立ち帰るのか? 言葉の主である「わたし」に立ち帰ってきなさい、そう言われます。

 

今朝の福音書の「忠告する」という言葉、行為の土台には今朝のこのエゼキエル書にある主である神さまの言葉が置かれていると思います。

 

忠告する側が上で、される側が下とか、どちらかが正しい答えを持ち、絶対的優位にある、というのではなく、忠告する側もされる側も、主である神さまのまなざし、御手の中にある、と言うことだと思います。

 

自分の方が偉くて、正しくて、間違っていないので、自分の忠告を聞いて、更生せよ、ではなく、自分と一緒に、共に、神さまのところに目を向けよう、立ち帰っていこう、という招きのようであると感じます。

 

わたしたちの中で、誰が一番正しいとか誤りがないとか、優れている、劣っているではなくて、わたしたちを超えた、大きな存在である主なる神さまに目を、心を、体全体を向けていき、互いに成熟していこう、という招きです。

 

心をひとつにする、とは、何か一つの考え、思想、主義があり、そこにみんなが揃っていくというよりは、わたしたち多様な人間が、わたしたちを超えた大きな存在である神さまに向かって何が一番大切なことなのかを問う、祈る、求めていくということであると思います。

 

審くのは人間ではなく、神さまであり、わたしたち人間同士は、互いに違いがあろうとも、すれ違いがあろうとも、聖パウロが記しているように呪うのではなく、祝福、神さまの支え、御加護はお互いにあるようにと祈り合う、ということだと思います。

 

互いに大きな神さまのまなざしの中で生かされ、神さまの器として、自分が置かれているところ、空間がよりよいものとなるように神さまに立ち帰り、その言葉に耳を傾けて祈る心を大切にしたいものです。