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聖霊降臨後第13主日A年

マタイ16:21–27

 

人間の思い

 

「そんなことはあってはならない」、「こんなはずではない」。このような思いを抱くことがあると思います。

きっとそうなると期待していたのに全く違う結果となって失望してしまうこと、怒りを抱いてしまうことがあると思います。

 

 

これまでの慣習、伝統、流れからするとこの先はこうなるとか、これまでの伝統、慣習に沿っていくとすれば、そのようにならなければならないという固定された概念みたいなものが、わたしたちの生きている世界にあると思います。

 

「そんなことはあってはなりません」と聖ペトロがイエスさまに言った背景には聖ペトロをはじめ、その他の弟子たち、そして、イエスさまのことを慕っていたユダヤ人たちの中に、ある固定化されたもの、概念、期待というものがありました。

 

それは先週の聖ペトロの信仰告白、「あなたはメシア、生ける神の子」という言葉の中に見られるものです。

 

メシアという言葉には「油注がれた者」という意味がありますが、救い主であると同時に、この世界を統べ治める王として理解されていました。神さまから遣わされた王として、この世界を支配する存在であり、そのメシアがついに到来し、自分たちに敵対する者たちを次々と打ち倒し、自分たちを解放し、王国を建て、王座につき、すべてを支配される、そのような期待を抱いていました。

 

今、まさにその時が来ようとしている。その瞬間を目にしようとしている。その王のそばに仕える者として、自分たちもそれに相応しい地位につくことができる。そのような期待を抱いていたのです。それは、彼らの偉大なる先祖ダビデ王の姿に重なるものであり、再び、そのダビデ王のような王の到来を待ち望んでいたのです。彼らの伝統、心のあり方に沿ってみれば、まさにイエスさまの姿、存在はその偉大な王の到来に違いない、そのような期待をイエスさまに対して抱いていたのです。

 

しかし、イエスさまから発せられた言葉、宣言、予告は、そのような期待とは真反対、否、それ以上・・。想像もしていないような道筋を示します。すなわち、その時代の指導者、権力者たちに捕らえられ、死ぬと。ユダヤ人たちを支配していた体制を転覆するどころか、その体制にあえて屈するかのように身柄を渡す、というものであったのです。

 

聖ペトロはじめ弟子たち、その他ユダヤ人には到底理解できない道筋です。「とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」という聖ペトロの言葉は、彼だけの叫びではなかったのです。「何を言っているのですか?大丈夫ですか?自分が何をおっしゃっているか、わかっていらっしゃいますか?」と。

 

だけども、イエスさまは聖ペトロの方を向き、言われます。

 

‘サタン、引き下がれ、あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている’

 

わたしたちキリスト者は、イエスさまの受難、死、復活、昇天、聖霊降臨という出来事を知っています。それがイエスさまを通して成された神さまの救いの御業、御計画であった、という宣言、信仰告白を受け継いでいるからです。

 

しかし、もし自分がそのようなことも全く理解できていない聖ペトロの立場であったらどうであったか?

聖ペトロの同じようなことをして、同じようにイエスさまから叱責を受けていたのではないか、と思ってしまいます。

 

心を新たに

 

‘神のことを思わず、人間のことを思っている’

 

イエスさまの言葉が胸に突き刺さります。日々、どのくらい神さまのことを思っているのだろうか?と。

 

食事の前の感謝の祈り、祈祷書を用いての日々の祈り、礼拝、黙想、、、そのような時間を取っているとしても、‘人間のこと’、つまり、この世的な事柄、問題に心奪われ、思い煩う、悩むことがどれほどあるだろうかと。祈っていても、黙想していても、その時、その時の仕事のこと、やらねばならないことへの思い煩い、人間関係の難しさに考え込むとか、いろんなこと、‘人間のこと’に思うことがたくさんあります。

 

神さまがなさろうとしていること、自分の中に、そばにいてくれて、新しいこと、新しい気づきを与えようとしても、それを受け入れるスペースが自分の中にないとき、迎え入れることができていないときがあります。

 

神さまがイエスさまを通してわたしたちのため、わたしたちの世界のために成されたことを見聞きしていても、未だ、‘人間のこと’で思い煩うことが多々あるのです。

 

イエスさまはそれに続いて言われます、

‘わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい’と。

 

‘自分を捨てる‘とはどういうことなのでしょう。

この言葉に接するたびにいつも思い巡らします。自分の意思も何もかも捨てろ、ということなのでしょうか。信念とか目標とかそのようなものを全て捨てろ、ということなのでしょうか。

 

色々と思い巡らしますが、今朝の使徒書にある聖パウロの言葉の中に、こうあります。

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と。そして、この世に倣うのではなく、「心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかをわきまえるようになりなさい(聖書協会共同訳)

 

‘聖なる生けるいけにえとして献げる`とは礼拝での祈る行為も含まれているようですが、礼拝、祈り、日々の生活を通して、その日常の中で、’心を新たにして自分を造り変えていただく’と。受け身、受動態で書かれているところも大切で、自分の力ではなくて、神さまによって、心を新たにされて、自分を造り変えていただくのだと。

 

繰り返して読んでいく中で、絶えず心を新たにする、される、というのは、自分の中にあるものを絶対化するのではなく、絶えず神さまに問いながら思い巡らすことなのではないか。自分を絶対化しないというのは、ある意味で、自分を捨てるということなのではないか、そう感じます。

 

自分が思うように事がならなくても、期待通りでなくても心配することはない、大丈夫なのだと。自分の思いをはるかに超える神さまの働きがあって、また、新たな道を開いてくれると。

 

思い煩い、悩みは生きている中では尽きないけど、今を、今日という1日を精一杯生きる、ことを思っていればいいのだと。

 

そのようにあるがままに生きていけるようにと祈りつつ、日々、リセットして生きていくことへと招かれているのだと思います。

 

先行きが見えないこと、期待通りの人生でないことに失望や不安を抱えるのではなく、自分にはわからない新しい道、何かが与えられるという希望のうちに生きる、ことへと招かれていることを思い起こしたいものです。