聖霊降臨後第12主日A年

マタイ16:13-20

 

告白するということ

 

“あなたはメシア、生ける神の子です” 聖ペトロの告白、イエスさまに対する宣言を聞きました。

イエスさまに対して、「あなたはメシア、救い主です、今も生きておられる神さまの子です」との宣言は、わたしたちの教会の信仰告白です。わたしたちは祈りの中で、礼拝の中で、この信仰を宣言します。

 

春から大学院で学ぶ機会を与えて頂いておりますが、前期の講義で初代教会の司教エウセビオスの教会史を精読しました。今日においては教会の歴史に関する本は世界中に数えきれないほどありますが、エウセビオスは教会の歴史を記した最初の人と言われております。精読した章の多くは初代教会に対するローマ帝国による迫害、殉教者についてでありました。講義の中でエウセビオスの教会史と並行して日本におけるキリシタン弾圧に関するものも少し読みました。様々な地域でその程度には違いがあるものの、教会に対する凄まじい迫害が行われ、多くの血が流されてきました。

 

キリスト教を迫害する側によるクリスチャンへの最初のアプローチはどのようなものであったかというと、クリスチャンが信じるイエスさまへの信仰告白、イエスさまを通して明らかにされた神さまへの信仰告白をやめること、でありました。

 

イエスさまへの信仰告白をやめ、代わりに皇帝や神々への信仰を告白すること。日本におけるキリシタンへの迫害の中では「踏み絵」を用いて、クリスチャンがこれまでに告白してきたものを破棄させようとする。それさえすれば、「いのち」は助けてやる、死なずに済む、というものでありました。

 

だけども、クリスチャンたちはそれをやめなかった。どんな状態に置かれようとも、イエスさまへの告白をやめることなく、イエスさまへの信頼を表明し続けた、という姿がありました。

 

歴史上における迫害する者に対するクリスチャンの信頼、告白の力、迫害する者に対する愛に接する時、そのエネルギー、信仰の力、神への愛すべてに、驚かされると同時に、自分自身の信仰のあり様、生き方をいつも問われます。

 

果たして自分にこのようなエネルギー、信仰の力、というものがあるだろうか?

自分がこのような場に置かれた時に、勇敢に、声高らかに、イエスさまへの信頼を告白できるだろうか?と。

 

不信仰な言い方ですが、建前だけでも告白をやめる、踏み絵があれば、踏んでしまえばいい、そう思ってしまいます。想像を絶する残虐な拷問の数々がありました。その苦しみは計り知れません。だけども、殉教者たちは最後までキリストを告白し続けました。全身全霊、心と体はまさに一つとして、その人の存在全体を通して、イエスさまに対する信頼を告白したのです。

 

先ほど紹介したエウセビオスの教会史はギリシア語で書かれておりますが、ギリシア語で「告白する」という語には、「告白する」という意味の他に、認識、認知する、表明する、という意味が含まれています。殉教者のうちには確固たる認識がありました。イエスさまと深いつながりがある、いつでもどこにでもイエスさまはともにおられ、この苦しみの先には光がある、という揺るぎないイエスさまへの信頼があったことを見て知ることができます

 

人間によってではなく、神さまによって

 

周りから見れば神さまに祝福されているようには全く見えない、悲惨な状態に置かれているように見えるのに、イエスさまへの信頼を告白し続けた人たちは、その人生すべてをイエスさまに捧げ尽くしていきます。この世的な価値観から見れば、「どうして?」と思ってしまうような生き方を貫いていった姿があります。

 

キリスト教信仰には「犠牲」、「献げる」、「捨てる」、「仕える」という言葉が絶えずつきまとっているイメージがあります。これらは現代に生きるわたしたちの生活にも重ね合わせることができます。信仰生活を送るにはいろんな犠牲が伴います。休みたい日曜日の時間を返上して、礼拝に来て、自分の労働の益でもあるお金を神様のため、教会のために捧げていく。その他、いろんな労力を費やして教会を支えてくれる方々がいて、教会は存続しています。

 

わたしは企業に勤めていましたが、会社を辞めて聖職志願する、と会社に伝えた時、部長や専務に呼ばれて、「お前、大丈夫か?」なんか、辛いことでもあるのか? 辞めて生活していけるのか? 今の仕事に不満でもあるのか?、今の仕事を辞めてまでする価値があるのか?、など色々と言われました。それに対して完璧な応答ができなかった自分がいたことを思い出します。未練があったと思います。自分の勤めてきた会社、仕事は小さな頃から時間と労力すべてを捧げてきたテニスというものと深いつながりがありました。そこをやめるというのはそれまでのつながりをすべて断ち切るということでもあり、躊躇していたようなところもありました。神学館に入学した後も「この道を選んだこと、間違ってないよなあ」とか、「みんなテニス、仕事続けて成功しているなあ」とか、時折、見聞きする便りに接して、考えることがありました。

 

でも、不思議です。先ほど触れた殉教者たちほどの強靭な信仰を前にしては何も言えなくなりますが、いろんな思いを抱えつつもイエスさまへの信頼は途切れることはありませんでした。微力ながらも、何かしら神さまのために生きる道が与えられている、また、この先も与えられる、という想いに駆られ続けてきたのです。

 

イエスさまへ完璧な信仰告白を宣言した聖ぺトロですが、今朝の福音書における重要なメッセージの一つは、聖ペトロに対して言われたイエスさまの言葉だと思います。

 

「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天におられる私の父である。」

 

天におられる神さまの先立つ働きによって、聖ペトロは完璧な信仰告白を宣言することができました。聖ペトロは教会の、教会の信仰の土台となったのも、主であるイエスさまがそこに基礎を置いてくれたからです。

 

教会においても、あの人の生き方はすごい、あの人の信仰は素晴らしい、偉大な貢献者だ、という人間による貢献、業を称えることがありますが、その背後にあるもの、基礎、土台、原理となっているのは、神さまであり、神さまの先立つ働きであり、神さまの力であることを想い起こしたいと思います。

 

先述した殉教者の生き方、じっと耐え、苦難を潜り抜けていき、そして、自分のすべてを捧げていく、というこの世的価値観とは全く異なる生き方を貫くことができたのも、その殉教者自身の中で、内で、働く神さまとの繋がりによるものなのだろうと思いまます。実にその人間の力ではなく、神さまの力がそこにあったのです。

 

一人一人のうちに働き、わたしたちの突き動かしておられる神さまがおられ、わたしたちは自分たちの思いを超えて、神さまのために用いられる器であることを思い起こしたいと思います。

 

偉大なことではなくても、ニコニコした笑顔を与える、ゆったりとした雰囲気をもたらしてくれる方々の存在は、慌ただしい、疲弊した現代社会においては癒しを与える泉となるでしょう。

 

日常生活を通して、わたしたち一人ひとりにも、教会の土台を支えていくための働きがあることを思い巡らしたいものです。