マタイ14:22-33
向かい風
8月6日、9日は広島、長崎で原爆が投下された日です。毎年、8月6日は広島の地に向かい、平和を祈願する礼拝に参加しておりましたが、コロナウイルスの影響により、中止となりました。9日の長崎での追悼記念の集会にも青年たちと参加した思い出があります。
あれから75年、日本は経済成長に伴い、戦後の荒れ果てた地は劇的な変容を遂げました。日本だけでなく、世界のあらゆる国々が豊かになりました。科学技術、医学も目覚ましい進歩を遂げ、この地球を超えて、宇宙にまでその関心は向けられ、人が宇宙にまで行くことができるほどになりました。
しかし、未だにテロ、紛争、争いを終息させることができておらず、75年前とはくらべものにならないほどの破壊力を持った兵器が開発され、お互いに牽制し合う人間の姿があります。世界は豊かになった、と言われつつも、未だに食べるものがなく、苦しんでいるところがあります。
そして、今、世界中が、コロナウイルスの到来により、わたしたち人間は右往左往しています。I Tの進歩によって、人間が実際に往来しなくても、コミュニケーションを取れることが可能となった点は高く評価すべきことなのかもしれないのですが、しかし、コロナウイルス感染症含め、解決できていない問題が山積みです。
コロナウイルス感染症など、未だ完全にとらえきれないようなウイルスなどへの対処法に関しては、効果的な治療、特効薬の開発へと期待をよせつつ、忍耐をもって生き抜いていくことしかできないのですが、平和の実現に関して言えば、わたしたち人間の行動の変容、意識改革によって、もっともっと前進していくことは可能ではないか、そう思います。
でも、大小様々、争いは絶えません。
知識、技術は進歩していると現代人は誇りますが、貧困の問題、テロ、紛争の問題、人間の心の病の問題は絶えずある。
キリスト教含め、宗教の存在は人の心を癒し、活気づけるものであると思いますが、「神仏を信じ、頼るよりも、自分の力で、たくさんの知識を身につけて、乗り越えるべきだ、宗教など、気休め、ただの妄想でしかない」、という宗教に対する冷たい視線はさらに増しています。
しかしながら、そういう現代人の多くの人々の生き方はいつもカリカリ、イライラ、慌ただしく、見えます。モノやお金はあるところには溢れるほどにあるようですが、多くの人々の心は混沌としています。
平和に生きる、平和な世界を構築するために尽力している人々はたくさんいます。教会、その他の宗教のその務めを担っていると思いますが、平和に生きるという生き方を妨げる「向かい風」は一向におさまる気配がありません。
聖ペトロの姿
イエスは「弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。弟子たちは漁師のプロでしたので、ある程度の悪コンディションでもそれまでの経験上、何とかできたと思います。舟、湖での移動、気候等の知識も備えていたはずです。
しかし、弟子たちの乗せた舟を襲った「向かい風」は弟子たちの経験、知識を超えるものだったのでしょうか。弟子たちはその「向かい風」に悩まされていたのでした。
その時、イエスさまがその荒れた湖の上を歩いて来られた。それを見て、「幽霊」と怖がる弟子たちに、イエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と声をかけられた。
それを聴き、ペトロはイエスさまに、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言う。「来なさい」と言われたイエスさまの呼びかけに、ペトロは応答し、舟から降りていきます。そして、水の上をイエスさまと同じように歩く。しかし、そこで強い風に気づき、怖くなり、沈みかけていく、、、イエスさまはすぐに手を伸ばし、ペトロを助けるが、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われる。そして、イエスさまとペトロが舟に乗るとその風はおさまった、、、と言うストーリーです。
いつも率先して出てくるペトロ。でも、失敗してしまうペトロ。他の箇所でも、どんどんと前へ出てきて、あれこれイエスさまに言って、意気込んだりするけど戒められたり、怖気ついたり、躓き、失敗するペトロを見て、「また、ペトロが出てきたか、、、そして、失敗する」と思ってしまう読者も少なくないと思います。
どのようにして失敗を避けるか、失敗しない人生を送るか。失敗を恐れる心。
わたしたち現代人、いろんなことに恐れています。なんでもかんでも評価される社会。すぐに結果を求められる社会。自分のことよりも他者のことばかりに目が向いて、批判だけして、建設的な対話ができない大人たちが支配する世界。
自分への評価、結果、成果に対する不安や恐れが人の心を傷つけていく。上手くいかない自分、周りへのイライラ、カリカリを助長させていく。職場や人間関係のイライラ、カリカリは、家に持ち込まれ、それは連鎖し、それ触れた家族はまた、イライラ、カリカリする。自分の内側は平和どこから、荒波のようにゆらゆらです。
上手くいった、いかなかった、という結果、評価に囚われるばかりで、そんなことを気にせず、自由に解放的に生きることができればよいのですが、恐れ、不安のゆえにそれができないことがたくさんあります。
イエスさまの「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」との言葉が強く出ているので、「疑ってはならない!」とか、「鋼のような強い信仰を持たなければ!」という思いに駆られ、疑ってしまう自分、信仰の弱い自分を責めてしまいがちなのですが、「失敗しないようにせよ」というのが、今朝の福音書のメッセージの中心ではないと思います。
今朝の物語の「舟」とはわたしたち自身であり、そこある「湖」とはわたしたちが置かれている日常や様々な機会、心の内側だと思います。浮き沈みのある日常です。生きている限り、いろんな出来事に直面します。
イエスさまに向かっていくペトロ、しかし、恐れのゆえに沈んでいくペトロ。沈んでいくペトロにすぐに近づき、手を差し伸べるイエスさまとの場面は、今朝の福音書の重要な場面だと思います。
ペトロはイエスさまへの信頼を示すために、浮き沈みのある、荒れた湖の上に飛び込んでいきました。そして、その水の上を歩こうとしました。その先にはイエスさまがいる。そこに向かって歩いて行こう、そう心に決めて、飛び込んで行きました。でも、「強い向かい風」があることに気づき、恐れ、沈みかけていく。
しかし、その失敗し、沈みかけたペトロにすぐに手を伸ばし、助け、その舟に乗られたイエスさまの姿がある。
「安心しなさい。わたしだ。恐れるな。」と言われたイエスさまの支え、助けがそこにある。
「安心しなさい。わたしだ。恐れるな。」という言葉の中には、わたしたち人間の側がどんなに弱く、脆くとも、失敗しようとも、イエスさまは決してわたしたちを「追放する」ようなことはしない、というメッセージが込められています。
神の子であり「わたしだ」と言われるイエスさまが、その人生の旅路には必ず共にいてくださる。
イエスさまが見えない、イエスさまを感じることができないと思うときであっても、イエスさまの方はわたしたちをいつも見てくれている。そして、沈みそうになれば、すぐに来て、手を差し伸べてくださる。
上手くいっていない、ダメな自分だ、自分の人生に意味があるのか、何か役に立っているのだろうか、そんないろんな不安のうちにあって沈みそうになる時、イエスさまは近づいてきてくださる。
恐れの中で、失敗を恐れず、舟から飛び降りたイエスさまへと向かっていくペトロの想いは、イエスさまと繋がっていくものでありました。恐れのあまりに沈みかけた、という失敗に見まえますが、その失敗を通して、絶えず共にいてくれるイエスさまの存在をこれまで以上に感じ、ペトロの足、歩みは強められていきます。その先にもペトロは躓きまずが、そこにも絶えずイエスさまのまなざしがペトロを包み込んでくれていたことを忘れずにいたいものです。