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聖霊降臨後第8主日A年

マタイ13:31-33、44-49a

 

願い

 

週報には神戸教区代祷表からの代祷を載せておりますが、表裏の2ページの代祷表を見ています。今日の主日で表面が終わり、来週から裏面2頁へ。些細なことなのですが、今年も気がつけば半分を過ぎていて、あっという間に夏が終わり、秋が来て、冬が来るなあ、としみじみ思いました。わたしは8月の最後の日が誕生日なのですが、夏休みの最終日で必死になって夏休みの宿題を仕上げていたなあとか、思い出したりします。少し前のことかと思いきや、すでに何十年も経っております。教会では若い世代としてみられておりますが、一般的には「中年」と呼ばれる年齢になり、ふと冷静になると、もう人生の半分を過ぎて折り返しているのかなあ、とも思い巡らしていました。

 

余談ですが、以前から息子から子亀が欲しいとせがまれておりまして、先日、購入しました。その中の書類に、平均寿命30年から60年、と書いていて、そんなに生きるのかあと・・・。もし60年、この子亀が生きていたら僕は100超えていて、もう、たぶん、神様のところに帰っているよなって、子供たちと話しました。僕が死んでも、この子亀は生きているということにもしみじみ思った次第です。

 

若い時にはこれがしたい、あれがしたいといろんな思いを抱いて、ガツガツ生きてきたような気がします。まだ、若いとか言われても、先ほども言ってように、もう折り返しを過ぎて、できることも限られてくるので、いろんなものを脇においていかなければなあ、と感じます。あれも、これもといろんなことを願っても、あれも、これもとすべてのことに取りかかることはできない、、、これから何を大切にしていくか、何を手放すか、自分なりに整理整頓、ここ何年くらい前に言われている断捨離をせねば、と感じています。まだまだ、欲はありますが・・・。

 

自分は今、何を願っているのか、自分の願いは、今の自分、この先の自分にとって本当に必要なものなのか?

 

思ったことをどんどんチャレンジしていけばいい、そういう考えもあるかもしれませんが、今のわたしとしては、何を脇に置いていくか、捨てていくか、想い巡らせてみよう、と思っています。

 

今朝の特祷には、

「あなたは常にわたしたちの祈りに先立って聞き、わたしたちが願うよりも多く与えようとしておられます」

という祈りがありました。

 

神さまが自分の祈りに先立って聞き、自分が願うよりも多く与えようとしてくれておられる。

 

この祈りは、マタイの6章にある「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」というイエスさまの言葉からのものです。そして、この後に「主の祈り」と呼ばれる祈りが弟子たちに教えられます。

 

わたしたちはいろんな願望―あれが欲しい、幸運が欲しい、成功したいという願望など―を持っていますが、それらすべてが一つ一つ、完璧に与えられる、というものではないようです。

 

神さまから与えられるもの、神さまが備えてくれているものがある、というのです。

 

宝物はここに

 

今から13年前、英国留学の機会を頂きましたが、旅立つ時、一冊の本をある方から頂きました。「アルケミスト 夢を旅した少年」という本で、世界的にも有名になった本、、、行きの飛行機の中で、読んで、その後も、何度も読んできたもの。書評には、「旅すること、探求することは大事だ」とか、旅し続けることこそが人生だ、とか、絶えず挑戦しづけることが大事だとか、色々です。わたしにとっては簡単な本ではありませんでした。なので、何度も読みました。

すべてのストーリーを話すことはできなのですが、エンディングは、旅立つ前の場所に戻り、そこで大切な宝物を見つけた、というもの。そこまでのプロセスが重要なのですが、本当の宝物は自分の一番身近なところにあった、と。

 

「自分探し」という言葉があります。自分を発見するため、本当に大切なものを見つけるために、いろんなところを旅し、いろんなことを経験する。それで見つかったという人もいるだろうと思います。

 

しかし、現実にはそう簡単にあちこち旅できるわけでもなく、あちこち環境、仕事、生活をかえることもできません。

多くは自分が置かれたところで、慣れ親しんだ場所で、平凡な生活の中で、日々、目の前にあることをやっていくことに追われる・・。その中で、新鮮で生き生きした人生を送るにはどうしたらいいのか? ということだろうと思います。

 

今朝の福音書は先週に続き、「天の国」がテーマです。

「天の国」とは神さまと共にあるという実感、喜び、安らぎに満たされるところ、「救い」の実感とも言えるでしょう。

 

それについて、今朝の福音書は、「からし種」という粉みたいな小さな、小さな種を喩えで用いたり、「畑」で宝物を見つけたという喩えがあったり、高価な真珠、網での魚の漁の喩えなど、いろんな場面が用いられていますが、どれも多くの人たちに開かれている喩え話のように見えます。

 

粉みたいなからし種がどんどん大きくなっていく、というのは、小さな、小さなことの中に、平凡で簡単に見落としてしまうような日常の中に、天の国という救い、喜びの種が、自分のすぐそばに、自分の内側にあるということだと思います。

 

畑にある宝を見つけたけど、畑ごと買うとか、高価な真珠を一つ見つけると持ち物をすべてを売り払って買った、という豪快な話は、「天の国」、つまり、神さまと共にあること、その御手のうちにあるという安心感があれば、他のものもういらないって思うくらい大切なものなのだという実感が示されているのだと思います。

 

「いえいえ、わたしはまだ他のものの方が欲しい、他のものが大切なのです」、「『天の国』よりももっと魅力的なものがあるのです」というのであれば、今日の喩えが伝える「天の国」についての福音を見出すことはできないのだと思います。

 

 天の国の種はすでに自分のうちに撒かれている、実りつつある、成長している、という喜ばしい知らせ、「福音」と呼ばれるものが今、ここにあり、それを素直に受け取れる「簡素さ」があるかどうかというだと思います。

 

日々、いろんなことに覆われて、いろんな思い煩いがあるのですが、本当にその中で一番大切なもの、それは神さまとの繋がりであり、ともにあるという実感であること、そして、それはすでに与えられているということ。

 

それが今日の福音なのです。