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聖霊降臨後第7主日A年

マタイ1324-30,36-43

 

牧師就任

 

当教会の牧師就任の恵みに与ったことを感謝します。3月1付で着任いたしましたが、新型コロナウイルスという未知の存在の到来によって、着任後、礼拝・集会・訪問等を自粛することを余儀なくされておりますが、今日、就任式を受ける恵みに感謝します。

 

自粛中、色々とこれまでのことを思い巡らしておりました。振り返れば、神学館を卒業して、大聖堂勤務に始まり、英国留学、倉敷、その間、1年間の高松の教会の管理牧師、幼稚園のチャプレン、福山の管理、立教英国学院チャプレン、高知の牧師と、それぞれ、3〜4年で異動するという期間を過ごして参りました。そこにいる時は目の前のことをしていくので精一杯でしたが、それぞれの地で、短い期間の中で何ができただろうか、と振り返る時間を過ごしました。

 

当教会歴代牧師の一人である中村弘司祭は、母教会である下関の教会の牧師でした。曽祖父・母、祖父・祖母、母、大叔母とのつながりがありました。以前、母親が、中村先生は「10年経ってようやく1人前の牧師になる」、と言っておられたよ、と話してくれたことがありました。今年で11年目になりますが、1人前とは到底言えない自分がいます。どのような意味で「1人前」とおっしゃられたのか、天国でお会いしてお聞きするしかできないのですが、そのことも思い巡らしました。

 

牧師就任式で、新任牧師の祈りをさせて頂きました。「祭壇」に召して仕えることを許されたことへの感謝。み言葉を宣べ、聖奠を行うこと、委ねられた人びとを救いに進ませること。賛美、感謝を高めること。説教する際に神さまに支えを求めること。これらは聖職按手式における際の誓いにも通じる祈りですが、司祭按手で神さまに祈り求め、手を置かれた日のことを想い起こしました。

 

牧師、司祭としての重要な務めは「聖奠」を行うことです。「奠:音読みで「テン」 訓読みで「まつる」」という漢字を用います。神仏に酒や食べ物を供える、定めるという意味があります。英語ではサクラメントと言いますが、元々は、ラテン語<サクラメントゥム>という語から来ています。昔のローマの兵士が皇帝や国のために己のすべてを捧げることへの忠誠、聖なる誓いをたてる際に用いられた言葉です。神さまのため、教会のために己のすべてを献げることを誓う、という心が込められています。聖公会では「聖奠」は洗礼と聖餐式と定められておりますが、この2つの儀式を通して、神さまへ、教会へ、自分の人生すべてを通して献げていく、その気持ちを今日、新たにしました。

 

そして、この「聖奠」の恵みに与る人たちが召されるようにと、仕えていく、その気持ちも新たにされます。

今日、小林主教さまが巡回に来て下さいました。その小林主教が司祭時代に書かれた神のおとずれの中に、当教会歴代牧師の一人であり、後に神戸教区主教になられた八代欽一主教から、洗礼志願者が与えられるのは「ヤーウェ・イルエ」だ、そう言われたことを書いておられたのが記憶に残っています。

 

この言葉は創世記にあるアブラハムのイサク奉献の物語に出てくる言葉です。主なる神さまから息子イサクを捧げるように命じられ、それに応えようとする・・・。愛する息子でありながらも神さまの声に従うために・・・。するとそこに雄牛一匹が角をとらえられているではないか! アブラハムが息子の代わりにこの雄牛を奉献した際に出てくる言葉です。主は備えてくださる」という意味です。

 

洗礼の恵み、聖餐の恵みに与る人が与えられるのは神さまの支え、助け、備えがあるからであるということです。自分だけの力ではない。

真摯に司牧に従事しつつも、この神さまからの支えを絶えず求めることを忘れずにいたいと思います。就任式の中にあった「祈りの人」とされることを切に求めたいと思います。

 

 

愛と忍耐を持って待つ人となるために

 

さて、今朝の福音書は先週に続き、イエスさまの喩え話が読まれました。「天の国」についてです。

 

イエスさまの語る「天の国」は死んだ後にある「天国」とは少し質が違うようです。わたしたちが今、ここで、生きている只中に、関係しているものです。

 

わたしたちの将来に約束されている天の国の完成、実現との関わりはありますが、それは今、ここにある「時」とつながっているのです。今、すでにこの天の国の完成、実現への種が巻かれており、芽が芽生えており、それが実っている途上にあるのです。

 

「天の国=神の国」とは何か? ルカではあなたがたの間にあると言う。喜び、癒し、感謝、安心と言う実感に満たされたところ、とも言えるでしょう。

 

喩えは神の国=天の国の秘密を語るために用いられるとイエスさまは仰せになられた。先ほど、聖奠と言う言葉はサクラメントゥムというラテン語からと言ったが、この言葉はイエスさまが仰せになられた天の国の「秘密」という「秘密」という言葉とつながりがあります。

 

「秘密」と仰せになられているけど、イエスさまを通して神さまを信じる人には明らかにされている、ということを意味します。それは、神さまは今もわたしたちの生きているところで働いておられるという、神さまの働きを意味します。イエスさまは喩えを用いて、目には見えないけども、神さまはいつもわたしたちの生きておられる世界で、そこに働いておられることを伝えられたのです。

 

イエスさまが喩えている「畑」とは、先ほど拝読しましたように、わたしたちが生きているところ、置かれているところです。しかし、そこには毒麦の種を撒く者もいると・・・。

 

想像できます。今、わたしたちの世界には美しいもの、心が癒されるもの、喜びに満たされるものを見る時もあれば、悲しく、傷つき、疲れてしまう、滅入ってしまうものを見る時もあります。イエスさまは喩えの中でその毒麦とは「悪い者らの子」と呼んでおります。「悪い者らの子」とは言い換えれば、分裂をもたらす者です。今朝の福音書には悪魔という言葉が出てきましたが、「サタン」とも呼ばれるものに通じています。

 

サタンとは神さまと人、人と人との間に入り、引き離そうとする存在です。わたしたちの目に悲しく、傷つき、疲れさせるものを見せつけて、神さまなんかいない、人間など信頼できないとささやく存在です。このような存在は、わたしたちが今、ここで、生きている中で、さまざまなものを通して感じ取ることができます。悲しい出来事、人間の欲望、妬み、憎しみからくるものです。

 

しかし、このような悪の存在、悪魔的な思いは神さまからのものではないのです。どうしてこのような悪が存在するか、完全に説明できないのですが、ひとつ言えることは、それは神さまからのものではないということです。

 

神さまのことも完全には説明できないのですが、今朝の知恵の書が宣言するように、神さまは良き方、正しい方、正義(知恵の書)」であり、悪を善へと変える力をも持っておられる方なのです。

 

その源は憐みです。神さまの憐みです。すぐに力によって屈服させる方ではないのです。わたしたちの人間の思いでは、「悪」は素早く「力」でもって制圧せよ、解決せよ、消してしまえ、と考えます。でも、不思議に思うのですが、神さまは違うのです。待つのです。

 

今日の現代人に著しく欠けてしまっているものは、「待つ力」です。なんでもかんでも「早い」ことが歓迎されます。「忍耐」という言葉も、「そんなに待っていては機会を逃してしまう、この世の中の流れ早いのだ」、と簡単に退けられてしまいそうです。

 

教会は時代とともに教会もこの世に適応していかねばならないと言われます。確かにそういうことも必要です。

しかし、しっかりとつなぎとめていかなければならないものもあります。

 

神さまの憐みです。「待つ」神さまの姿です。その神さまの御言葉を撒き続けることです。良い時もそうでない時もじっくりと神さまのあわれみを感じつつ、それに浸されて、待つ空間として教会は存在します。

 

その教会に仕えるわたしは、何ができたとか、できないと一喜一憂するのではなく、ヤーウェ・イルエなる神さまが常に備えてくれていること、憐んでくれていること、そのことに浸されることを祈り求めたいと思います。そして、神さまが示された忍耐に与ることによって、この明石の教会に仕える人とされ、神さまの憐み、恵みの器としてここで司牧していくことができるように絶えず祈り求めたいと思います。