マタイ13:1-9,18-23
神さまの愛を伝えること
今日の喩え話、6月に幼稚園でのお話の箇所したところでした。
子供たちにどのように聖書のお話をするか? 神学校での期間は、神学という学問を集中的に学ぶので、難しいことー解釈的にどうのこうのとーを考えてしまいがちで、 実習先の教会の日曜学校や幼稚園でのお話をする時はすごく考え込んでしまって・・・解説本を読み漁り・・・大人に対しての説教も同じく、考え込んでいましたが。
でも、聖書が書かれたのは「神さまを伝えたい」という熱い想いであり、神さまとのつながり、出会いの実感によるもの。確かに神さまを探し求める言葉、嘆き、苦しみの叫びの言葉もありますが、聖書全体に流れているものは、今も生きておられる神さまの愛だ、それを伝えること、これがメッセージだ、と。
幼稚園でのお話は最終的にいつも同じ話になっているかもしれません。子供たちには、目には見えないけど、神さまの愛情に包まれていること、その目には見えない神さまの愛情は、幼稚園ではそこにいる先生たちによって示され、与えられているから、安心してって話します。辛いこと、不安になることもあるだろうけど、みんながそこにいるから、と。神さまの愛、そして、神さまと自分、そして、神さまを軸とした人間のつながりを伝えることを意識しています。
大人への教会の説教も同じようにシンプルを心がけているつもりですが、何か変化をつけたいのか、背伸びしてしまうのか、「説明」ばかりだったんじゃないかと、その日の晩に一人反省会をすることはしばしばあります。説明とか持論もいいけど、神さまを信じる人を突き動かしているものは何だろうか? 自分の命をすべて投げ出してもその信仰を示し続けた人が歴史上にたくさんいる。その原動力は何だったのか? その信仰の対象である神さま、イエスさま、とは何をわたしたちに示されたのか?と。
その都度、自分に問いかけます。わたしが、今、ここに立って、語る場を与えられているのはなぜか?
自分の話をすることではないだろうと。また、あれができていない、ここがダメだ、とか、こうしてください、というそこにおられる人たちに「お説教」をすることでもないと。
今朝のマタイによる福音書では、イエスさまが家を出て、湖のほとりに座っておられると、大勢の群衆がそばに集まってきた、とあります。初めて聴く人もいれば、リピーターもいたでしょう。
あんまり多いので、イエスさまは船に乗って少し岸から離れました。みんなががばーっと寄ってきたので船に乗り込んで話をすることになったのです。
それほどまでにイエスさまの話を聞きたかったのです。そこに集まっていた人たちはいろんな問題を抱えていたことでしょう。イエスさまの話を聞いて、元気になりたい、癒されたい、そう願う人たちがそばに集まってきたのです。
イエスさまの言葉は心に響くもの、心の奥まで染み渡るものであったのだと思います。
「つながり」が人の心を耕す
イエスさまは喩え話をされます。イエスさまの喩えはそこにいた人たちの日常生活に関わるものでした。とても理解しやすかったようです。
その喩えは「種撒き」の喩えですが、道端に落ちて鳥に食べられた種、土が浅く根がないので枯れた種、茨の間に落ち、茨が邪魔して育たなかった種、良い土地に落ちて実を結んだ種が紹介されています。ここでの種蒔作業は、日本とは異なり、よく耕して良い土地にして種を撒くやり方ではなく、耕す前に土地一面にばら撒いて、その後、掘り起こすという手法だったようです。投げられた種はあちこちに・・・。
今朝の後半の箇所は、種が撒かれた土地に焦点が当てられ、良い土地、良くない土地というような説明がされています。
種は御言葉で、土地はそれを聴く人間という形で。しかし、この部分はイエスさま自身の言葉ではなく、後の初代教会によって付加されたものであったようです。教訓的なものでしょうか。みんな、良い土地になりましょう!という励ましでしょうか。
100%、常に実を結ぶ土地でいる、ということはかなり難しいように思いますがいかがでしょうか。自然の状況と同様、わたしたちの状況もその時その時で様々です。良き時もあれば良くない時もあります。
イエスさまのメッセージの一つは、どんな状況においても神さまの御言葉としての「種」を撒き続ける、ということだと思います。
わたしたちが「種」を投げられる「土地」であるならば、良い状態でない時でも、神さまはイエスさまを通して神の言葉である「種」を撒き続けてくれるのです。
神さまに失望とか、諦めはありません。いつも希望のうちに種を与えてくれるのです。
もう一つ大切なのは、わたしたちもまた「種」を撒く人にされているということだと思います。神さまの言葉を撒くのですが、そこには自分自身の言葉、生き方が関係してきます。いくら神さまの言葉を投げかけても、それを語る自分自身の言葉、生き方がそれとつながっていないのであれば、投げかけたところに実は結びません。
これは、私自身、いつも胸に留めつつ、しばしば、反省するところです。神さまの愛を語りつつ、自分の子供にキツいことを言ってしまった時、よくよく話を聞かずに、自分の考えを押し付けたりしてしまった時、彼らの中の種を枯れさせてしまった、と反省することがあります。
神さまの言葉である「種」が育つためには、わたしたち人間同士のつながりが関係します。神さまの愛に満ちた言葉は、本当に確かである、活力を与えるものである、愛に満ちている、ものになるためには、お互いに支え合い、いたわり合う、という「つながり」が必要なのだと思います。
先ほど、幼稚園でこの喩え話について話したと言いましたが、わたしは子供たちに、良い土地になるには先生たちの支え、そして、お友達の支えや助けが必要です、と伝えました。
イエスさまの時代の種蒔きでは、一面に種を撒き、後で掘り起こすという仕方であったようですが、わたしたちにおいては、種が撒かれた後、道端に落ちて鳥に食べられたり、土が浅くて枯れたり、茨が伸びてふさがったりしているところがあれば、そうならず、種が育つように、お互いに支え合い、助け合うことが必要なのだと思います。
甘い!と言われるかもしれないのですが、わたしたち人間にとって、本当に困難な時には「つながり」こそがもっとも人を生かす糧となると思うのです。