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聖霊降臨後第5主日A年

マタイ11:25-30

 

 

<くびき>とは、二頭の牛馬などの動物を一つの組にするために木の棒と綱を使って作られた道具のことです。農耕等において生産力を高めるために発案されたものです。

 

<くびき>という言葉はわたしたちの日常においても用いられるものです。くびきを逃れる、くびきから解き放たれるなど、<囚われた状態>から自由にされた状態を示します。

この場合、<軛>とはあまり良いものとして見られていません。

 

聖書の中には<くびき>を神さまの教えを守ること、信仰生活のための教えを学ぶこととして肯定的に見ているものもあります。しかし、イエスさまの時代においては、ユダヤ教の律法をきちんと守って生きていくために律法学者たちは細かいルールを作り、民衆にそれを守るように促しました。細かいことばかりに目が向けられていきます。

 

律法とは本来、神さまと繋がって生きるために与えられたものです。奴隷の状態であった自分たちを救い出してくれた神さまの先立つ働き(出エジプトの出来事)があり、恵みがあり、その神さまの働きが今も、これからも共にあることを記憶していくためのしるし(十戒の授与)でした。しかし、時代とともにその律法の本質を見失い、自分たちの力、人間の能力、質に頼る生き方へと傾倒していきます。そして、それを守れない人を裁き、排除していくことになります。

 

律法学者、宗教指導者たちは先祖たちからの伝統、教え、規律を守っている、継承している者、選ばれし者という意識がありました。自分たちには落ち度がない、完全に訓練され、努力してきた人間だ、という自負がありました。それに至らないのは訓練、努力が足らないからだ、能力、質に問題があるからだと。しかし、その自負によって、裁かれ、排斥され、傷つき、疲れた人たちがいました。

 

本来、律法学者、宗教指導者の務めは神さまの教え、すなわち、神さまの愛、憐みを教え、伝え、人間を神さまへと向かわせ、結び合わせることです。しかし、彼らがしていたことはその真逆のこと、神さまからの愛から遠ざけ、神様とのつながりを断ち切ることであったのです。神さまと結ばれているという想いを抱かせるのではなく、自分はダメな人間だ、神さまには到底近づけない、結ばれない人間なんだ、と思わせてしまうことであったのです。

 

そこに、イエスさまが現れ、その人たちに<招きの言葉>を与えたのです。

 

イエスさまの招き

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしたちのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタ1128

 

 

先ほど、律法学者、宗教指導者のことを批判しましたが、彼らの生き方は、現代人の生き方の模範です。彼らは福音書の中ではイエスさまと論争し、批判される人たちですが、この世的に見れば極めて優秀な人間です。自分をきちんとコントロールできる人です。学問に通じており、清く正しい生き方を常に目指していた人です。もし、教会の中にもこのような人がいれば多くの人たちから尊敬の念を抱かれることでしょう。

 

しかし、イエスさまの目には違って映っていました。イエスさまの目には律法学者、宗教指導者は知恵ある者、賢い者として映っていたかもしれませんが、神さまの想いに適う者として見ることができなかったのです。

 

神さまの想いに適う者、神さまと最も親密な者とは、<幼子>のような者である、というのです。幼子とは他者の支え、助けを必要とする存在であり、その支え、助けを素直に求める存在です。神さまの憐み、支えを素直に求める者、その神さまの憐み、支えに感謝し、ほめたたえる者が神さまの最も近く、親密な者なのです。幼子は何もできません。しかし、それを恥じたりしません。素直を受け、喜び、安心できるのです。そして、その無垢で素朴な姿は周りの人を癒す力を持っています。

 

しかし、今日の世の中は、このような見方ではありません。

与えることはしても、素直に受けること、素直に自分の脆さ、弱さをさらけ出すことはあまり歓迎されません。失敗や脆さ、弱さを許しません。意思が弱いとか、努力が足りないとか、スキルが低いとか、使いものにならないと、お互いを批判し合い、自分ならこれができるあれができると小競り合いをしているのです。このような小競り合いに疲れ、病み、生きる意欲をなくしている人は数え切れないほどいるのです。

 

教会ではどうでしょうか。

前述した律法学者、宗教指導者も神さまを信じる者、信仰者です。しかし、先に述べたように彼らは本当の自分の姿が見えておらず、救われているようで、解放されておらず、未だ、自分の力で神さまや他者に認められようと<自己を主張>しているのです。必死に頑張ると同時に、他者と自分を絶えず比較し、自分より劣っていると思っている人を裁き、批判することによって<自分を保っている>のです。信仰者といえども、このような誤りに陥ることは多々あります。

 

神さまを信じる者、信仰者の生き方って何でしょう? 

何のために信仰を持って生きるのでしょうか? 

他者と比較して、自分は救われている、優れている、と鼻を高くして生きることなのでしょうか?

 

他者のために生きるため、という意見もあります。そうだと思います。しかし、自分の心が本当にその奥底から癒され、安らいでいなれば、本当に他者のために生きることはできないと思います。そうでなければ、疲れ果てて、潰れていくだけです。自分はこんなに頑張っているのに!と批判的になるだけです。

 

教会は何よりも<休み、癒される>場所です。

サロンになってはいけない、という意見があります。

確かに自分たちだけの心地の良い場所にして、占領してはならないのですが・・。

だけども、教会に来て、<安らいだ、休めた、癒された>という実感がなく、溜息をつき、与えられた仕事をしなければとストレスを抱えてしまうことがあるのであれば、それは真の教会の空間ではありません。

 

イエスさまははっきりと言います。もう一度言います。

 

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしたちのもとに来なさい。休ませてあげよう

 

教会はイエスさまが仰せになられたことを体現する場です。

イエスさまがおられるところであり、イエスさまが呼ばれる場所です。

 

確かに、わたしたちの日々の重荷はすぐには無くなりません。人ぞれぞれ、何か重荷を持っています。たくさんいろんなものを抱え、苦しんでいる人もいれば、自分にはあれができない、これができないと自分の脆さ、弱さを責め、それを重荷と見る人もいます。重荷とは<重い荷物>と書きますが、単に重いものを抱えていることを示すだけでなく、自分にとって<つらい事>を示すものでもあります。

 

イエスさまはそれを自分のところに持って来なさい、と招くのです。

その荷物が今、本当に必要か、どうか?

その荷物は自分のこの先の人生において持っていくに本当に必要なものなのか?と。

 

イエスさまのところに持っていって、見てもらえばいいのです。

 

たくさんいろんなものを抱えているのであれば、そんなにたくさんのもの、一人では抱え切れないよ、と降ろしてもいいと。

 

自分の脆さ、弱さを重荷と感じているのであれば、そのような人間的な強さは神さまの前では全く必要ない、大丈夫だと。

 

一つひとつ見て、取り去ってくださるのです。

 

本当に必要な<くびき>は何であるかを気づかせてくださるのです。

 

 

<軛>とは二頭の牛馬を一組にするものと言いましたが、イエスさまが<わたし=自分>と一組になってくれて、共に担ってくれるのです。

 

その<くびき>を持てないのか、担えないのかと裁き、見捨てる方ではないのです。

 

どこまでも共に、それを一緒に担って、歩いてくれるのです。