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聖霊降臨後第4主日A年

マタイ10:34-42

 

イエスさまが言われる対立

 

礼拝再開して4回目の礼拝となりました。今年のカレンダーでは<福音書>はマタイによる福音書がほぼ継続して拝読されることになっておりますが、主として<イエスさまの弟子であるということ>について思い巡らしております。

 

先週は<イエスさまの弟子>として、わたしたちは派遣されているということに触れました。家から礼拝に来て、礼拝堂に入り、祈り、そして、礼拝を終えて家路に着く、という流れがありますが、礼拝堂から<出ていく>という行為を意識したいと思います。さあ、帰ろうというのが一般的ですが、家路に向かって<出ていく>ことに意味があります。

 

1950年文語の祈祷書では<いざ、我らいでゆかん>という言葉があります。出発進行のイメージです。1990年祈祷師では<ハレルヤ、主と共に行きましょう>ですが、<主と共に出ていく>というイメージです。家路に向かう途中にレストラン、買い物、その他レジャーに行こうとも、その旅路には主が共にあり、主と共に出て行っているのです。その先にある新しい1週間も家事、仕事に謀殺されることがあっても、そこに主が共にあり、主と共に出て行っているのです。

 

さて、今朝の福音書はドキッとする言葉があります。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである(マタイ10:34)

 

イエスさまが平和のシンボルのような方であるはずです。でも、そうではないと・・・どういう意図があるのでしょう。

 

イエスさまの弟子として生きることは、その置かれた場においてトラブルメーカーになること?なのでしょうか?

 

イエスさまが生きていた時代の平和観とはどのようなものだったのでしょうか。それをまずは見る必要があります。

イエスさまが生きた時代は<ローマの平和>と呼ばれていた時代です。その平和は強大な力を持ったローマ帝国による平和です。力による支配です。軍事力、財力、人間の知力による支配、平和です。その平和はすべての人を喜びと安心で満たすものではなかったようです。その支配、権力に向かって、剣を持って立ち上がり、闘争したユダヤ民族の歴史があります。

 

イエスさまが仰せになる<平和ではなく対立>とは何を意味するのか?

イエスさまの生涯に照らして見るとき、そこには、この時代の世界観、平和観、力による支配からの脱却、そして、そこからの転換が示されているように思います。

 

イエスさまによる<新しい平和観>、<新しい生き方>に目を向けるようにとの招きがあります。

 

しかし、そこに至るには<対立>が生じるであろうと。それは何を意味するのでしょうか?

 

新しく生きる

 

イエスさまに従うことで、家族内での対立が起こる、という言葉・・・イエスさまに従うために家族を捨て、すべてを捨てて従う聖人の伝記などがあります。しかし、イエスさまが母マリアをどこまでも愛し、大切にしておられましたし、教会史家によれば、使徒たちの何人かの奥さんは宣教の旅路に同行していたようなのです。家族を含めすべての他者を大切にすることは、イエスさまの教えの中心にあるように思います。では、何を意味しているのでしょうか?

 

家族も含めて、すべての人々がイエスさまを軸にした<新しい関係性>に土台を置いた神様の家を建てるということなのです。新しく<神さまの家>を建てるという宣言です。

そこには隔ての壁はありません。

 

一人ひとりが本当の自由を得て、その人に与えられた賜物を発揮できる場所を整えるという約束です。

 

一人ひとりがイエスさまの軸にして互いに受け入れあい、支え合うことができる場所、生き方を示すと。

 

狭い家族意識、狭い共同体観からの脱却。狭い価値観を強いることからの脱却です。

 

広く、大きなビジョンでお互いを見ることができる場所、空間、生き方へと招くと。イエスさまが言われる<剣>は武器としての<剣>ではありません。人間の内側、心を鋭く突き刺す、イエスさまのまなざし、イエスさまの言葉なのです。

 

でも、当然、そこには反発があり、対立があります。簡単には隔ての壁は壊せません。わたしたちの内にはそれぞれ自分の価値観があります。自分はバランスが取れている、広いビジョンを持っている、と自負している方もいるかもしれませんが、自分では気がつかないうちに自分の価値観、ものさしに囚われてしまっていることが多々あるのです。

 

そうしたわたしたちに対して、イエスさまからの招きがあります。イエスさまの言葉、生き方に従うようにと。

 

その土台、規範はイエスさまにあります。イエスさまの生涯、十字架への道行にあります。

 

それは今朝の聖パウロの言葉にも示されています。

わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じる

キリストはただ一度、罪に対して死なれ、神に対して生きておられる

自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている

 

イエスさまの十字架の道行は、狭い家族意識、狭い共同体意識、狭い価値観含めて、すべての隔ての壁を壊すために、その<対立>の中に、ご自身が先立ってすべての人たちのために向かっていった道行です。それは、死という終わりではなく、新しいいのちを与えるという始まりへの道行であり、そこにわたしたちも入っていくことができるようにと、新しく開いてくれた道行です。

 

<新しく生きる>とは常に何か新しいことばかりをすることではありません。そんなに新しい発想がどんどん生まれ出ることはありません。

 

<新しく生きる>とは<今、ここを生きる>ことです。今という時間は消滅し、絶えず新しい時に向かっています。過去から学ぶことはたくさんありますが、過去には戻れません。 <今、ここに、イエスさまと結ばれて、神さまに向かって生きている>という活き活きとした関係性に目覚めてくださればいいのだと思います。

 

<新しい今>が自分に向かってきます。自分にしかできない生き方があるのです。他者の意見も大事なのですが、イエスさまは今、ここにいる、<自分=わたし>に向き合い、招かれます。「わたし」と「イエスさま」との関係性に目覚めるのです。「わたし」に「イエスさま」が何を求めておられるのか?を。その問いは絶えず、新しく<自分=わたし>に向かってくるのです。