マタイ10:24-33
イエスさまのようになるようにとの呼びかけ
「弟子は師にまさるのではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」(マタ10:24)
イエスさまに呼ばれた人がキリスト者とされ、イエスさまに呼ばれた人の集いが教会となる。つまり、教会とは建物ではなく、そこに招かれている人の集まり。イエスさまに呼ばれた、そして、今、共に歩んでいる、生きている!という活き活きとした実感に満たされるようにと招かれた場が教会。イエスさまの12弟子もその実感に満たされ、イエスさまと共に歩み、生きた人。
その弟子たちはイエスさまから派遣されていく。その実感のうちに、その喜びを伝えるために。しかし、その派遣されていく道のり、派遣された場での歩み、人生は平坦な道のりではない。悩み、不安、恐れ、苦しみ、悲しみが絶えずある、そのことをイエスさまは示される。
イエスさまの弟子として歩むこと、生きることの目的は何だろうか。派遣への道のり、派遣された場で、イエスさまの弟子として何をすればいいのだろうか? イエスさまの弟子としての務めは何か?
イエスさまの言葉は極めてシンプル。
イエスさまの弟子は師である自分のようになりなさい、という言葉。
イエスさまの弟子はイエスさまのようになること。
それが弟子としてすべきこと。弟子としての目的、弟子としての務め。
だが、師である‘イエスさまのようになること’は極めて高いハードルのように感じる。イエスさまのように振る舞い、語るということは凡人には出来ないことのように思える。癒しの業、有言実行の生き方、完璧なスピーチなど。
イエスさまのようには到底なれない、誰もがそのように思ってしまう。
イエスさまの弟子として招かれ、生きているわたしたちはどうすればいいのだろうか?
昨日は執事按手式が行われた。イエスさまの弟子としてキリスト者とされた人が、さらなる新しい道のりへ、イエスさまから固有の召し出しを受け、派遣されていった。その空間、時間を目の当たりにして改めて思い巡らした。
恐れるな
今朝の福音書の中で繰り返し出て来る言葉がある。<恐れるな>という言葉である。
どんな状況に置かれようとも<恐れるな>という言葉。
この言葉は師であるイエスさまからの勧めであり、励ましであり、約束であり、宣言である。
人間であるから恐れはある。いろんな恐れ、不安がある。それは人それぞれである。置かれた場所、置かれた状況によってその人が抱いている恐れ、不安がある。
その恐れ、不安によって、逃げ出したくなることもある。実際に逃げ出すこともある。それでもいい。
でも、忘れてはならないことがある。自分が直面する恐れ、不安 ー病、死、人間関係など含めてーよりも遥かに偉大な方、愛に満ちた方がこの世界に存在しているということである。
病も死は不可避である。いつかは病になり、また、いつかは死を迎える。人間関係も様々であり、他者と生きている以上、悩み、不安になることがある。自分の存在を否定して来るような圧力、言葉、振る舞いをぶつけて来る人もいるであろう。
だが、イエスさまは宣言する。「体は殺しても、魂を殺すことの出来ない者を恐れるな」
わたしたちの内側にある魂、心は、神さま以外は誰も奪い取ることはできない。
どんなに人間を苦しめるものが襲って来ようとも、わたしたちの存在を否定しようとするものが立ち向かってきても、
神さまは決して、わたしたちの存在、魂を傷つける方ではなく、わたしたちの存在を永遠に守って下さり、わたしたちを神さまの子としていつまでも大切にしてくださるのである。
イエスさまの<恐れるな>と宣言は、神さまへの完全なる信頼、愛からきているものであり、それをイエスさまは揺るぎなくこの世界に示してくださったのである。
わたしたちはしばしばイエスさまの癒しの奇跡の業、完璧なるスピーチなど魅力的な姿に惹かれる。しかし、その華々しい姿ではなく、そのイエスさまの内側に目を注ぎたい。その内側にあるものは、<恐れないとい心>、<神さまへの信頼のうちに生きる生き方>である。神さまへの全幅の信頼、その心を持つようにと招かれる。これこそが、イエスさまの弟子として生きる上でわたしたちが求めるものなのである。
イエスさまは最も困難な十字架上での苦難、脅威の只中においてもその信頼は揺らぐことがなかった。
そのイエスさまの確かな宣言はイエスさまの<復活>で確固なものとなった。そして、その<復活のいのち>をわたしたちはすでに受けている。その<いのち>のうちに、信頼のうちに新しい1週間を歩んでまいりましょう。