ヨハネ17:1-11
“「時」が来ました”
旧約聖書の中にあるコヘレトの言葉3章 1節には「天の下では、すべてに時機があり/すべての出来事に時がある。」と記されておりますが、イエスさまは絶えず「時」というものを意識して生きておられたように思います。
そして自分の「時」とは、常に父なる神さまのみがお定めになるものであり、絶えず、その「時」、その「時」を、大切に生き抜かれたのだと思います。
わたしたち自身の人生も「時」の中に置かれています。自分で決断した「時」もあれば、気づかないうちに何かをする、何かに直面する「時」があります。
「時」は刻々と過ぎていき、自分が思うように「時」を操ることができないようです。
栄光を現す
イエスさまが言われる「時」とは「栄光を表す」ことと繋がっているようです。
「栄光を現す」とはあまり聞き慣れない言葉です。「栄光」に関して言えば、この世において功績を残すとか、何か競争で勝ち抜いて頂点に立つ、というような印象を抱きます。
聖書における「栄光」とは「重み」がある、という意味が込められているようです。
そこにたっぷりの想いが込められている、軽々しいものではなく、そこに深く、篤い想いが込められている、そのようなイメージです。
“わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう”(12.23)
この主日の福音書の前の箇所で、イエスさまはこのように仰せになられました。
「地上から上げられるとき」とは、十字架上での受難の死、そして、復活、昇天という出来事と繋がっています。
イエスさまの十字架には、わたしたち人間が持つ醜さ、この世の暗闇の力、悲しみ、憎しみ、苦しみが込められており、イエスさまはそれらすべてを担って、父なる神さまに差し出されました。
神さまの憐みのみがそれらすべてを受け取り、包み込むことができ、醜さから美しいものに、暗闇は光へ、憎しみは赦しへ、苦しみは喜びへと変えてくださる、というイエスさまの父なる神さまへの信頼、そして、イエスさまの重厚な祈りが、この主日の福音書に示されているのです。