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復活節第6主日A年

ヨハネ福音書15:1-8 

 

ぶどうの実

 

旧約聖書には「ぶどう畑」や「ぶどうの木」などに言及している箇所が多く見られます。神さまとの契約を結んだイスラエルの民が「ぶどう畑」と呼ばれたり、神さまがぶどう畑を耕し、目を注いでおられるというような記述があります。

 

ぶどうを育てるのは簡単ではないそうです。丁寧にじっくりと目を注ぎ、大切に育てていくことで、豊かで良いぶどうの実が出来るのです。そこにはぶどうを大切に育てようとするぶどう畑の農夫とその愛情を豊かに受けて育つぶどうとのつながりがあります。

ぶどう酒はぶどうの実から搾られて出来るものですが、聖書が記された時代においては家庭での食卓で飲まれるだけでなく、喜びの宴には欠かせない飲み物でありました。ヨハネ福音書の中でのイエスさまの最初の奇跡が行われたのはカナの婚礼でありましたが、その奇跡は婚礼の宴の中で水をぶどう酒へ変えるというものでした。

 

ぶどうの実とはぶどうを育てる人とぶどうとの繋がりの結実であり、また、喜びのシンボルと言うことができると思います。

 

つながり

 

「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。実を結ばないなら取り除かれる・・。

心配になるような言葉です。しかし、その後で、「つながっていれば、豊かに実を結ぶ」とありますように、つながってさえいれば、豊かに実を結ぶことができると言う約束もあります。

 

少し考えてしまいます。「つながっている」のに実を結ぶ枝と、実を結ばない枝の違いは何だろうか?と。ぶどうの木が吸い込んでいる栄養が枝に流れ、それを受けて良い実が結ばれます。そこに良い実が実らないのはぶどうの木と枝の間を妨げる何かがあって、枝が素直に栄養を受け取ることができなくなっているからでしょう。

 

しかし、イエスさまは言います。「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい」と。

 

イエスさまの話された言葉、それは聖書の御言葉、福音です。わたしたちは「清い枝」、すなわち、素直に栄養をしっかりと受け取ることができる「枝」にされていると言うことです。わたしたちは心を豊かにしてくれる御言葉、福音を素直に受け取って豊かに実を結ぶ人、喜びを実らせる人にされているのです。そのことを深く味わいたいと思います。